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前の席のあの子は『アイの歌声を聴かせて』もらえたか? 前編

はじめに

 今回の記事は2021年公開の映画『アイの歌声を聴かせて』と同年放送のテレビアニメ『Vivy ーFluorite Eye's Songー』に触れている。ネタバレ回避のためにも是非この二作を鑑賞(あるいは対峙)後に読んでいただければ幸いである。




 エンドロールが終わり、劇場の中が明るくなった。夜が明けて夢から覚めるように、同じ作品を見ていたぼくを含め5人ほどの観客が現実に戻される。

 ちょうどぼくの前の列に座っていた女の子ふたり組が立ち上がる。そのうちのひとりが言った。

《感動した》

 彼女の胸の内が端的に表現されていた。映画を観た直後にこういうストレートな言葉はなかなか出てこないものだと思う。余計な脚色をする必要が無いほど、その子は作品を愛おしく感じたのだろう。

 ぼくも立ち上がる。手に持ったトレーには空になったコーラと、結構な量が余ってしまったポップコーンの容器が入れてある。ポップコーンの方は流石にLサイズだと多いだろうと思いMサイズにしたのだが、もしかして注文を聞き間違えられたのかと思うくらい量が多かった。次にこのイオンシネマ弘前に来たら頼むのはSサイズにしようと思った。

 帰りに映画館の女性スタッフにトレーを渡すと、ポップコーンの容器を見てお前こんなに残したのかよと言いたげな表情を見せたような気がした。食品ロスの問題が叫ばれる時代に申し訳ないことをした罪悪感に襲われる。しかしどう考えてもひとりの客が食うには多すぎる量がミディアムサイズとして売られていることにも問題があると心の中で言い訳してみる。本来は親子やカップルで食べることが想定されていたのかもしれないが。

 それからもうひとつ言い訳を考える。映画が面白くて食べる手が止まってしまった。これはあながち出任せでもない。実際にぼくが観た作品は素晴らしい完成度だった。何より前の席のあの子にたった一言《感動した》と言わせたのだ。スクリーンが放つ引力が食欲に勝ったとしても致し方ないだろう。

 ポップコーンのことは自分の中でケリがつく。トレーを手放し身軽になったぼくは心置きなく映画を振り返ることにする。魅力に満ちた作品だった。視界に広がる世界は美麗で、シンプルな歌詞の挿入歌を含めて音楽が気持ちの良い没入感をもたらしていた。キャストの演技が各キャラクターを丁寧に表現していたこともこのアニメ映画を語る上で欠かせないだろう。

 しかし、ぼくはどこかもどかしさを感じていた。それは映画ではなく自分自身に対してだった。

 あの子のように簡潔な一言が出てこない。素晴らしく魅力的で面白かった。それは間違いない。この確信を感動したと表現することも可能ではある。だが、それをしてもどこか違うと感じてしまうことが簡単に予想できた。

 終劇直後に一言発することができた彼女とぼくは何かが決定的に異なっているのではないか。そしてそれは感性とか映画を鑑賞するスタイルの違いだけではなくて、彼女が映画を通して手に入れたものをぼくが得られていないことに起因するのではないか。

《歌声が聴こえましたか?》

 そう問いたいと思った。あの子に。自分自身に。この問いこそぼくが観た映画『アイの歌声を聴かせて』を振り返るということだった。




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 最初に『アイの歌声を聴かせて』というタイトルを目にしたとき、ぼくの脳裏に別のアニメ映画が浮かび上がった。

 それは6年前に公開された『心が叫びたがってるんだ。』という作品だった。

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 この映画の主人公は、過去の出来事の影響で言葉を発すると腹痛が起きる。そのせいで口に出さない気持ちが内側に溜まっていくから「心が叫びたがってる」のだ。

 『アイの歌声を聴かせて』も「聴かせて」とお願いするタイトルとなっているからには、何らかの事情で聴かせられない状態にあるのでは、と想像したわけである。

 これは取るに足らない連想ゲームだったが、ひょっとすると悪くない考えかもしれないとも感じていた。『アイの歌声を聴かせて』の「アイ」とはAIのことらしいと知ったからだ。

 AIは“Artificial Intelligence”を縮めたもので、一般的に「人工知能」と和訳される。人間の知能を再現しようとするコンピュータを指す言葉だ。ぼくが自分の考えを悪くないと思ったのは、このAIという存在がぼくの知識の上では歌えないはずだったからだ。

 数学者の新井紀子氏の著作で2018年に発行された『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を開いてみる。その中にイギリスのディープマインド社がAIに自動作曲させた話が載っている。

 ディープマインド社は作曲のためAIにロマン派のピアノ曲を「学習」させた。ここで言う「学習」とは大量の曲の「波形」を入力し、それらに共通する特徴を見つけさせることである。その特徴を真似して生み出された「波形」を出力させることがAIによる《作曲》というわけだ。

 この《作曲》においてAIは「学習」した曲に込められた作曲者の意図など考慮しないし、自ら作り出すものにもテーマは無い。ただ特徴を拾ってそれっぽいフレーズを生成するだけだ。物事の意味を理解できないAIは部分的にそれっぽいものを作れても、全体を俯瞰したときに統一性を持ったひとつの作品を仕上げることはできないのだ。

 この話を広げればAIは歌えないことになる。もちろんあらかじめ曲と詞を与えておき、与えた通りに出力させれば歌えたことになるのだが、やはりここにAI自身の歌い手としての意図は存在しない。AIが発しうるのは歌声ではなく、出力された音声データと言うべきものだ。だからこそ『アイの歌声を聴かせて』というタイトルが成立するのだ、という妄想はそこそこの楽しさを持っている気がする。

 とはいえアニメ映画を観る上でそんな現実を持ち出すことはナンセンスと言われても仕方ない。ぼく自身も数ヶ月前までならこの妄想を即座に切り捨てていただろう。しかしそうしなかった。《AIは歌えない》という現実を土台に「AI」と「歌」という題材を描いた作品に出会ったからだ。

 それは今年の春クールに全13話が放送されたテレビアニメ『Vivy ーFluorite Eye's Songー』である。

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 あらすじを紹介すれば、史上初の自律人型AIのヴィヴィが、100年後の未来からやってきたマツモトというAIと共に、未来の世界で発生するAIと人間の戦争を止めようとする物語だ。

 作中では人型のAIが当たり前となっているが、それらには一個体につきひとつの「使命」が与えられるという設定がある。ヴィヴィの「使命」は《歌でみんなを幸せにする》というものであり、それを果たすために《心を込めて歌うこと》を模索する。このことも戦争の回避と共にストーリーの軸となっている。

 現実のAIもフレーム問題(AIに命令を与えたとき、急に隕石が落ちてこないかなどありとあらゆる可能性を考慮するため無限の時間がかかってしまうこと)の兼ね合いからするべきことの枠組みフレームを明確にしなければならない。この枠組みをAIにとっての「使命」と表現できる。設定が現実に則したものであることは『Vivy』というSFアニメに実感をもたらしたひとつの要因でもある。

 ヴィヴィは様々な出来事を経て歌姫として人気を得るようになるが、それでも《心を込める》とは何か答えを見つけることができない。さらにある出来事を通して自ら作曲に挑む決意をするが、与えられた「使命」を果たすための存在で創造性を持たない彼女は大苦戦することになる。そうやって最後にようやく到達した《心を込める》ことの答えは100年という時間軸で描かれた物語によって強い説得力を与えられ、人間でもAIでも変わらない「心」の本質として燦然と輝きを放つ。このとき、ぼくたちは真の意味でヴィヴィの《歌声を聴く》のだ。

 この傑作を観たために『アイの歌声を聴かせて』というタイトルにはアイの歌声が聴こえないという前提があるのではという妄想に根拠があるように感じられた。そこには、もし本当にそうであるならばという期待もあった。もし本当にそうであるならば、この映画もまた『Vivy』のようにAIを通して人間にも共通する何らかの本質を描き出してくれるのではという期待だった。




 12月4日は雪が降っていたが、映画館に行くならこの日か次の日しかなかった。週が明ければイオンシネマ弘前でも『アイの歌声を聴かせて』の上映が終わってしまう。既にイオンシネマ秋田では終了していた。雪で視界が悪く路面凍結の恐れがあっても県境を跨ぐより他に選択肢は無かった。

 上映の1時間ほど前に到着したぼくは映画館の隣にあるさくら野という百貨店を物色してから館内に踏み込んだ。グッズショップに立ち寄ると、『アイの歌声を聴かせて』のパンフレットが一冊しかなかったので先に購入しておく。同時に映画館の作法に従ってポップコーンのセットを買う。笑顔で丁寧な応対の女性スタッフが持ってきたポップコーンを見てすぐに多すぎやしないかと思う。自分の滑舌が悪かったせいかと考えるが、支払った金額はMサイズの料金で間違いない。上映前の予告映像や映画泥棒を見ながら食べる手を動かし続けなければならなかった。

 やがて映画が始まる。ぼくは静かなシーンが多い映画だったらどうしようと不安を抱いていた。他の客に迷惑をかけない場面だけ狙って食べていたのでは消費しきれると思えなかった。

 映画の序盤を観て“振り”が丁寧な作品だなと思う。初めに主人公格のサトミが忙しい母親の代わりに家を切り盛りする姿が描かれる。ここで彼女の頑張り屋な人となりが見えてきて、彼女をサポートするAIの活躍から作品の世界観も示される。そこから登校までの過程において母親との良好な関係性、学校では孤立しているらしいというサトミの立場、他のキャラクターたちの個性といったストーリーの前提となる要素が丁寧に示されていく。作品全体を通して描くものを印象づけるために序盤で引き込もうという気概を感じられるようだった。このことでぼくはポップコーンの完食を諦め始める。

 そしてサトミのクラスにAIであるシオンが正体を隠して転向してくる。このことがチューリングテスト(人間が別の部屋にあるコンピュータとキーボードを通じて会話し、相手がコンピュータだと見抜けなければ人工知能が完成したと判定するテスト)のようなものであることは冒頭で示されているが、それにしてはシオンの挙動がおかしい。彼女は最初のあいさつから人間を真似たと言うには不自然な言動を繰り返し、極めつけには突然歌い出しながらサトミの同級生であるアヤのシュシュを奪って髪をまとめ、学校を駆け回ってミュージカルを始めてしまう。シオンが歌う曲の歌詞は彼女自身と同様に無垢でどこか幼い印象があり、独善的ではあるがサトミのために歌っていることがすぐにわかる。

 ここでぼくはあれっと思う。シオンが歌っている曲(「ユー・ニード・ア・フレンド 〜あなたには友達が要る〜」)は誰かから与えられたものをそのまま出力したわけではなさそうだ。シオン自身の意思で歌われている。ぼくがあれっと思ったのは、予想より遥かにあっさりしていたからだ。

 あっさりアイの歌声聴こえるじゃん。そう思ったのだ。




(中編に続く)


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