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立岡宗一郎は“足の速い隠善智也”か?

 プロ野球の世界は輝かしいものです。

 逆に輝かしいものといえば、太陽とか宝石とか小田幸平の頭頂部とか色々ありますが、重要なのは、いずれにしても輝かしいものは暗い影を生み落とすということです。

 そんなプロ野球が持つ明暗のコントラストを表したとても好きなエピソードがあります。それはかつてオリックスバファローズに在籍していた由田慎太郎という外野手が、引退後に大学の同期でプロ野球でも素晴らしい活躍をした鳥谷敬と食事をした際の話です。

 2012年暮れ。引退した由田は久しぶりに早稲田時代の仲間と再会し、食事を共にした。その席上で、鳥谷がこんな質問をしてきたという。

「なぁ、おまえさ、結局1軍で何本ヒットを打ったんだよ?」

 由田の9年間の通算成績は32安打2本塁打である。それを聞いた鳥谷は、しみじみとつぶやいた。

「そうか。おまえのヒットは、俺の1か月分のヒット数だったんだな」

 村瀬秀信さんの『ドラフト最下位』というスポーツノンフィクションの中で取り上げられたこのエピソードは、プロ野球を輝かしいものたらしめる“スター”と、どれだけそれになりたいと望んでも到達できない“スターでない者”を克明に描き出しています。




 由田慎太郎は71人の選手が指名された2003年のドラフトで最後に名前を呼ばれてプロの世界に入りました。走攻守それぞれにバランスが良く、大きな穴が無い左投左打の外野手。東京六大学で首位打者や打点王を獲得した実績があり、プロでも二軍では安定して打率.280程度を記録するだけの力がありました。

 しかし由田にとって落とし穴となったのは、彼自身に“大きな穴が無い”ということです。それは裏を返せば走攻守の全てが平凡ということ。大きな弱点を持たなかった由田は、大きな武器も持っていませんでした。打球をピンポン球のように飛ばすパワーや、グラウンドを縦横無尽に駆け巡るほどのスピードはありません。しかも左投げであるが故にポジションも外野か一塁に限定されます。

 プレーすればそこそこの成績は残せる。しかし輝かしいプロ野球の世界でプレーできるのは“そこそこ”でなく“突き抜けた”成績を残すポテンシャルを秘めた選手たちです。ドラフト最下位指名でポテンシャルの有無も曖昧だった由田は、プレーの機会自体にそれほど恵まれませんでした。

 最高峰の舞台で9年間もがき続け、ようやく残した成績が“スター”の1か月と同程度。活躍するために必要なのはウィークポイントではなく、ストロングポイントの有無であることが垣間見えます。




 現在はオリックスで育成コーチを務める由田の現役時代を振り返ったとき、その印象が重なってくるひとりの人物がいます。彼もまたプロ野球の世界に足を踏み入れたものの、それほど前評判は高くない左投左打の外野手でした。

 その名は隠善智也。2015年で現役を引退し、現在は巨人の広報となっています。9年間の現役生活で残した足跡は通算31安打。由田にかなり近似した成績です。

 隠善は2006年の育成ドラフト4位で巨人に指名されてプロ入りします。同期にはスーパースターとなった坂本勇人や、渋い活躍を見せた寺内崇幸、そして自身と同じく育成選手として指名されながら2009年の新人王となった松本哲也といった選手たちがいました。

 広島国際学院大学という隠善以前には社会人を経てプロ入りした選手がひとりいるだけの大学から指名を勝ち取った要因は、その芸術的なバットコントロールにあります。逆に言えば、彼の武器はそれしかありませんでした。それこそ同じ左投左打の外野手ながら少しだけ早く指名された松本との差であり、一軍での安打数が彼より305本も少なく終わった一因でもあります。

 プロ入り後は早々に支配下登録された松本と異なり、一軍出場できない身分のままルーキーイヤーが終わりました。それでも持ち味は発揮して二軍で打率.284を記録しています。

 2年目となる2008年の開幕前に支配下登録され、松本より早くプロ初安打も記録しました。プロ初スタメンの試合で骨折した松本が無安打のままシーズンを終えたのを尻目に18安打を記録。打率.290とヒットを打つ能力には光るものを見せました。しかし、これ以降は一度もシーズンで二桁以上の安打を放てず引退してしまうのです。

 ルーキーイヤーの成績を詳しく振り返ると、その理由の一端が見えてきます。確かに隠善は打率.290と3割近い確率でヒットを打ちました。しかし、63打席のうち長打は二塁打を2本記録したのみで、四球に至ってはひとつしか記録していません。結果、出塁率と長打率を足したOPSは.624と打率から考えにくいほどの低水準となりました。

 足も突出して速いわけでなく、左投げでポジションが限定される守備でも強みを見せられませんでした。2009年に同じ左打ちの外野手である松本や亀井義行がそれぞれに打率プラスアルファの強みを見せて台頭する中、隠善は出場機会そのものが減少してしまいます。

 相変わらずヒットを打つ力はあり、二軍では2011年に打率.325、2012年にリーグトップの打率.327を記録しました。しかし単打を量産する以外の武器がなくては、松本、亀井、長野久義、高橋由伸、谷佳知、鈴木尚広、矢野謙次といった実力者がひしめく外野陣で存在感を示すことはできません。

 そうしているうちに三十路を迎えていた隠善は、一軍でも2014年に打率.321、2015年は肩の脱臼で無念のリタイアを喫しながら2打数2安打の打率10割を記録します。いずれの年も高打率の裏で長打と四球は皆無でした。戦力外通告を受けた2015年のオフ、隠善智也は彼らしさをまとったまま、自主トレを共にした高橋由伸と同じタイミングで輝かしい世界を去りました。




 隠善の引退に際して、ライターの菊地高弘さんがベースボールキングに寄せた記事に次のような一節があります。

 巨人のファーム選手たちがめいめい汗を流すなか、ピッチングマシンを相手に快音を響かせている左打者がいた。驚くべきことに、その背番号「52」をつけた選手は、ほぼ百発百中の精度で投球をミートしていたのだ。いくらマシン相手の打撃とはいえ、打撃技術の高さは、隣で打ち込んでいた立岡宗一郎と比べても歴然としていた。

 隠善の優れたミート技術を示すエピソードですが、隣で打っていただけで引き合いに出され、打撃の精度に疑問符を付けられそうな立岡宗一郎が不憫で笑えます。

 フォローを入れるなら、このエピソードは隠善が引退する3年前なので2012年の話ということになります。立岡にとってはプロ4年目で、巨人に移籍してきたばかりの年です。そして彼はこの年に左肘靭帯断裂の大怪我を負い、中学時代に多少経験しただけの左打ちに転向しています。その頃の彼ならマシン打撃に苦労しても仕方ないことでしょう。それと比べられる隠善はどうなんだというのはありますが。

 もうひとつ補足すれば、この記事が書かれた2015年に立岡は一軍で103安打を放ち、打率.304をマークしています。おそらく書き手の狙いは、その立岡より精度の高い打撃をしていた隠善は凄いと印象付けることだったはずです。

 そんな何気ないマシン打撃の一コマから10年の月日が流れました。百発百中の打撃を見せていた隠善は引退し、彼との差は歴然だった立岡は、才能と努力で左打ちをマスターして今年も現役生活を続けます。高卒14年目で5月には32歳です。同じ左打ちの外野手で、共に31歳で引退した由田や隠善のキャリアを越えていくのです。

 立岡は2015年から3年連続で40本以上の安打を放っているので、由田や隠善と比べること自体がお門違いかもしれません。しかし、2018年以降のシーズン二桁安打を記録することにも苦しむ彼を考えれば、31歳で引退せずにいることは意外なようにも思えます。




 立岡は2008年のドラフト2位で福岡ソフトバンクホークスに入団。走攻守に高いポテンシャルを持った右打者として高く評価されていました。また、高校では外野手でしたが、本人の希望でプロではショートに挑戦することとなりました。

 当時レギュラーだった川崎宗則の後釜を狙うべく二軍で研鑽に励みますが、ルーキーイヤーだった2009年のドラフトでソフトバンクが今宮健太を1位指名したことから潮目が変わります。

 2年目の2010年に代走として一軍出場を経験しますが、期待の若手右打ちショートというポジションは今宮に奪われてしまいました。2011年は一軍出場が無く、2012年にはトレードで巨人へ移籍することとなります。もはやドラフト2位で高評価されたという尊厳はありませんでした。

 そして移籍早々に打席変更を余儀なくされるほどの大怪我。心が折れてプロ野球人生を断念してもおかしくないように思えますが、彼は屈せず這い上がりました。強い思いで続けた努力が眠っていた才能を開花させ、左打ち転向後間もなかったフェニックスリーグで打率3割を記録。翌2013年には一軍初安打を放ち、外野手登録となった2015年の大ブレークに繋げました。

 しかし、彼もまた隠善と同種の課題を抱えていました。長打も四球も多くないのです。2015年は打率.304に対してOPS.691ですから、打撃成績だけで言えば隠善に毛が生えた程度です。センターを守れる脚力は隠善に無い武器ですが、足を売りにするタイプとしては守備も盗塁も特別に秀でているわけではありません。

 結局レギュラー定着を期待された2016年以降は出番を減らしていきます。プロ入り後にやむなく拵えた左打ちで引き出しが少ないのか、打率も低迷してしまいました。2017年に陽岱鋼、2019年に丸佳浩、2021年に梶谷隆幸と実績のある外野手が加入してきます。他にも外野手ではベテランの亀井やパンチ力のある石川慎吾、立岡と同タイプの重信慎之介といった面々がおり、控えとしても内外野をこなす増田大輝や若林晃弘ほどの使い勝手はありません。

 さらに立岡の苦境は続き、31歳を迎える2021年には同じ左打ち外野手の松原聖弥や八百板卓丸が存在感を発揮しました。おまけにドラフトでも法政大学の岡田悠希が指名され、直近4年で31安打しか放っていない立岡のキャリアは風前の灯です。

 ところが彼は生き残った。確かに2015年の低迷した巨人打線で唯一活躍した印象が強いのか、原辰徳監督は2021年に47試合も立岡を起用しています。外野手では亀井や陽がチームを抜け、梶谷も故障という事情がありました。しかし、中堅手としては丸、松原、八百板、岡田、重信に続く6番手といっても良いであろう立場の31歳がチームに残留し、開幕前のオープン戦ではトップバッターとしてスタメン起用されるまでになっているのです。

 23歳となる2013年から昨年まで9年間。立岡が左バッターとしてフルシーズン過ごした期間は、奇しくも由田や隠善と一致します。そして今年はふたりを越えていきます。その要因は何だったのでしょうか。




 この記事を書く当初、ぼくは立岡が生き残れる理由をその脚力にあると考えていました。そこそこ単打を打つ能力はあります。そこにセンターを守れる程度の脚力があれば、輝かしい世界で細々と生きていける。“足の速い隠善智也”というフレーズこそ立岡宗一郎の本質だと考えたのです。

 手前味噌ですがそこまで的外れな回答ではないでしょう。もし立岡に脚力が無かったのなら、同じ打撃成績を残しても昨年までのどこかで戦力外になっていたはずです。由田や隠善が持たなかった武器として足の速さは見逃せません。しかし、本質はまた違っているように思えてきました。

 逆境の中で精神を強く持ち続けられる。野球の能力という“上手さ”より、ひとりの人間として“強さ”を持っていたことが、今でも輝かしい世界と立岡を繋ぎ止めているのではないか。

 プロ野球選手は野球をすることが仕事なのだから、腐らず野球に打ち込むことは最低限の責務だと言えるかもしれません。しかし、特別な才能を持つ“スター”やその原石に囲まれ、チームのデプスやストラテジーによって能力があっても生かせない環境で心を保ち続けるためには、人並外れた強靭な精神力を求められるはずです。

 先に取り上げた由田慎太郎は、入団してから何度もチームの監督が変わりました。4年目で4人目の監督となったのがテリー・コリンズです。彼は就任会見で機動力野球を標榜しました。

 しかしオリックスはラロッカ、ローズ、カブレラなどのスラッガーを次々と獲得。長打力に恵まれていない由田の存在感は霞んでしまい、開幕一軍に選ばれてある程度の活躍を見せながらもファームへ降格してしまいました。

 コリンズ監督は由田に対し、二軍落ちと同時に身体を大きくしてパワーアップするよう告げたと言います。話が違う。プロ野球人生最大のチャンスを迎えていたタイミングで由田は腐ってしまったのです。

 これは“スターでない者”の弱さとして実に普遍的であるように思えます。特別でないことを自覚していても、できるだけ頑張ろうと思うことはできます。けれど環境が不利に働いたときにその意志を貫き通すことは、特別でないことを自覚するが故に困難なのです。

 それでも立岡宗一郎の精神は不屈でした。自身の入団直後に今宮健太が現れても、ソフトバンクに居場所が無くなり入団から4年足らずでトレードされても、右で打てなくなり急造の左打ちにすがるしかなくなっても、実力者がチームに加入して自分の立場が危うくなっても、彼は決して折れませんでした。左肘の靭帯は断裂したし、脇腹も痛めたし、右手の有鉤骨は折れたけど心は折れなかった。

 2012年のある日のマシン打撃。ライターが隠善の打撃技術に驚いた一方で、隣で打ちながらその歴然とした差を誰よりも感じていたのは立岡本人だったのかもしれません。けれどもそこで腐ることはなかった。ひたすら前だけを見据え、向上心を失わない。その姿勢がチームに利益をもたらすと判断されたからこそ32歳になるシーズンを迎えています。

 立岡宗一郎の現在地は、ショートを志してソフトバンクに入団した頃に思い描いていた理想とは全く異なるものでしょう。しかし、プロの世界で「一番目立つ遊撃手で頑張ってみたい」と言えた“輝かしさ”への渇望こそ、彼の本質であったのだと思います。

 “スターでない者”の憧れと、実現するため泥臭く舞台にしがみつく握力。それは輝かしさが作り出す暗い影にどこまで耐えうるのか。今年もまた新しいシーズンが始まろうとしています。

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