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「コンテンツ」が「形式」の壁を超えるための挑戦 アニメ『ピーチボーイリバーサイド』を検証する(後編)

 ウマ娘にアグネスデジタルが実装されましたね。アグネスデジタルは以前から好きなキャラクターでした。ウマ娘でありながらウマ娘オタクという特徴的なキャラ付けはもちろん、SRのサポートカードにだいぶお世話になったのもあります。

 あと前にウマ娘の二次創作小説を書こうと思ったことがあるんですよ。カレンチャンが題材だったのですが、書いているうちに自然とアグネスデジタルが登場して、上手く物語を軌道に乗せてくれた(気がする)ので少し特別に感じていたりもします。結局その小説は上手い締めが思いつかず塩漬けにしているんですけど。たぶん完結しないだろうなって気がします。良い締めが思いついたらそれを元に別の話を考えて、オリジナル小説として再構築しそうだからです。

 それからアグネスデジタルを演じているのが鈴木みのりさんというのが良いですね。鈴木みのりさんは声優以上に歌手としての印象が強いですが、中でもアニメ『恋する小惑星』のエンディングテーマだった「夜空」という曲が好きです。

 『恋する小惑星』は、文化部が持つ日常の緩さと青春の盛り上がりを兼ね備えた空気を丁寧に描いていてとても魅力的な作品だったのですが、そこに寄り添うこのエンディングテーマが作風にベストマッチでした。部活の帰り道に星が瞬く空を見上げるような、鈴木みのりさんの優しい歌声が青春を宇宙に喩えるこのアニメの魅力を最大限に引き立ててくれています。

 『恋する小惑星』は四コマ漫画を原作とするアニメですが、オープニングやエンディングの主題歌はアニメならではの演出でもあります。こうしたアニメならではという部分は「形式」の壁を超える上で大きな武器となります。そう、「形式」の壁です。

 今回の記事は『ピーチボーイリバーサイド』というアニメがどうやってその壁を超えようとしたか検証してみるというものです。この後編を書くにあたって前編を読み返すと、散々『ピーチボーイリバーサイド』と関係無い話をした挙句ようやく本題に入ったと思った途端に後編へ続くとか言ってて笑っちゃったのですが、またもや関係無い話をしてしまいました。後編始まって早々ウマ娘の二次創作小説書こうとした話とか読まされてまだ読んでくださっている方、本当にありがとうございます。

 それではそろそろ本題について語りましょう。前編はこちら。

 それから前編でも紹介した『ピーチボーイリバーサイド』の監督・上田繁氏のインタビューが後編の内容にとって重要なので、再度紹介しておきます。





 時系列シャッフルを検証するための前提として、アニメ『ピーチボーイリバーサイド』全12話の内容をざっくり書いてみます。

 まずは時系列順(シャッフル前)です。

1話 主人公のサリーがもうひとりの主人公・ミコトと出会い、彼を追って旅に出る。

2話 1話ラストで旅に出たサリーは後に仲間となるフラウやホーソンと出会う。襲撃してきた鬼との戦闘。

3話 2話の続きの戦闘。サリーはフラウや戦いに敗れ鬼の力を失ったキャロットと旅に出るが……。

4話 3話ラストの出来事がありホーソンが仲間となる。ミコトを追う旅の中である疑問を抱いていたサリーは、彼女自身の旅の目的を見つける。

5話 4話の展開から一行は魔女が暮らす森へ。森には互いに対立する爬人とエルフの一族がいて、彼らは共に封印された鬼を倒そうとしていた。

6話 5話の続き。封印を解かれた鬼との戦闘。戦いの後、サリーは4話で見出した旅の目的の先にある理想を明確にする。

7話 吸血鬼という鬼との戦闘。吸血鬼は単に人間を憎んでいるわけではなく、人間を愛した過去があった。

8話 旅をしていたミコトは6話でサリーに敗れた髪鬼と出会う。

9話 サリーは「鬼を皆殺しにしようとする人間」ミコトと「人間との共存を目指す鬼」皇鬼の二者択一を迫られる。

10話 9話で提示された選択肢への回答。そしてサリーたちは彼らを襲撃しにきた鬼と戦闘になる。

11話 10話の戦闘が決着。サリーたちは次なる目的地を目指す。

12話 鬼の力で眠らされたミコトは鬼を皆殺しにすることを決意した過去の悪夢を見る。その悪夢によってミコトの出自が明かされる。

 言うまでもなくもっと色々描かれていますが、あくまでざっくりということで。次にこれを放送順に並べてみますが、一旦皆さんがシャッフルする立場だったらどの順番にするか考えても面白いかもしれません。時系列順で良いという人もいるでしょうけど、12話の回想あるいは11話の旅立ちを最後にして「俺たちの戦いはこれからだ」として終わるアニメは「形式」の壁を超えるべくもないのは確かでしょう。

 それでは放送順(シャッフル後)で並べてみます。シャッフル前後の話数の記述が混ざるとややこしいので、放送順の話数は「OA〇話」と記載します。

OA1話 1話(OA4話)ラストで旅に出たサリーは後に仲間となるフラウやホーソンと出会う。襲撃してきた鬼との戦闘。

OA2話 2話(OA1話)の続きの戦闘。サリーはフラウや戦いに敗れ鬼の力を失ったキャロットと旅に出るが……。

OA3話 サリーは「鬼を皆殺しにしようとする人間」ミコトと「人間との共存を目指す鬼」皇鬼の二者択一を迫られる。

OA4話 主人公のサリーがもうひとりの主人公・ミコトと出会い、彼を追って旅に出る。

OA5話 吸血鬼という鬼との戦闘。吸血鬼は単に人間を憎んでいるわけではなく、人間を愛した過去があった。

OA6話 旅をしていたミコトは6話(OA12話)でサリーに敗れた髪鬼と出会う。

OA7話 3話(OA2話)ラストの出来事がありホーソンが仲間となる。ミコトを追う旅の中である疑問を抱いていたサリーは、彼女自身の旅の目的を見つける。

OA8話 9話(OA3話)で提示された選択肢への回答。そしてサリーたちは彼らを襲撃しにきた鬼と戦闘になる。

OA9話 鬼の力で眠らされたミコトは鬼を皆殺しにすることを決意した過去の悪夢を見る。その悪夢によってミコトの出自が明かされる。

OA10話 10話(OA8話)の戦闘が決着。サリーたちは次なる目的地を目指す。

OA11話 4話(OA7話)の展開から一行は魔女が暮らす森へ。森には互いに対立する爬人とエルフの一族がいて、彼らは共に封印された鬼を倒そうとしていた。

OA12話 5話(OA11話)の続き。封印を解かれた鬼との戦闘。戦いの後、サリーは4話(OA7話)で見出した旅の目的の先にある理想を明確にする。

 時系列順の話数で言えば、以下のように並べたことになります。

2話︎ ⇝3話︎ ⇝9話︎ ⇝1話︎ ⇝7話︎ ⇝8話︎ ⇝4話︎ ⇝10話︎ ⇝12話︎ ⇝11話︎ ⇝5話︎ ⇝6話

 この並びには意図があって、先のインタビューでも上田監督は最後まで見ればシャッフルの理屈に気づいてもらえると語っていました。しかしネットで本作の感想を検索する限り、そこに気づけたアニメファンはごく僅かのようです。仕方ないでしょう。アニメファンにそのあたりを読み解く能力があるのなら、今年の冬に放送された上田監督作品の『ゲキドル』は今頃『鬼滅の刃』くらいヒットしていたはずです。

 僕は多少なりともシャッフルの理屈に気づけたつもりでいるので、そのことについて書いていきます。

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 まず時系列シャッフルによって1話が変わっていることが挑戦的です。シャッフルの代表格『涼宮ハルヒの憂鬱』1話は自主制作映画で、この「劇中作を1話にする」という手法は『みつどもえ』2期でも似たことをやっていたりします。しかし全12話通してひとつのストーリーを描く『ピーチボーイリバーサイド』はこれと別物です。本編から独立した内容を1話にしたわけではありません。

 アニメの1話は多くの視聴者が継続して視聴するか判断する重要な試金石となります。だから作品の魅力を提示し、続きを見たいと思える内容でなければなりません。一説にはアニメ化の決定を行う際、偉い人には3話までの内容でプレゼンするため、後半がどうあれ3話までは面白そうに作るとも聞いたことがあります。これはソースもはっきりしないし本当かどうかわからないですけど。ともあれ『ピーチボーイリバーサイド』は時系列順の1話(原作においてもこれが1話)を4話に回しているのです。

 時系列及び原作の2話をオンエア版の1話にした意図については、上記の上田監督のインタビューで語られています。その語っている部分をまとめると以下のようになります。

・時系列通りだと1話と2話で視点が変わってしまい、話のテーマも別物になる。

・全12話と短いアニメにおいてはテーマを統一したい。

・物語が動き出すのはサリーがフラウと出会う場面(2話)からであり、統一する上で(ミコトではなく)サリーを主人公にしたい。

 1話(OA4話)はミコトが主人公、サリーがヒロインで、比較的単純な人間と鬼との対立の物語と捉えることができます。一方の2話(OA1話)はサリーが主人公で、人間とは異なる兎人のフラウの存在によって「差別」という作品の重要なテーマのひとつが描かれます。先述したように、1話は視聴者に魅力を始めとした作品そのものを提示する重要な役割を担います。上田監督は本来の2話の内容こそ、アニメ版『ピーチボーイリバーサイド』という作品の名刺に相応しいと考えたのです。

単純に鬼を倒すだけの物語ではない。異なる特徴を持つ人々が存在し、不寛容で、相互理解に欠け、対立に満ちた「差別」が蔓延る世界で、サリーは理想の実現を目指す。

 これが上田監督がOA1話で提示した作品のテーマです。厳密に言えばこの話単体でサリーが理想の実現を目指すことまではわかりませんが、その予感は十分に漂わせています。この提示を行うこと、そして提示したテーマで作品を統一することこそが時系列シャッフルの理屈です。

 ミコトやサリーが鬼を倒す爽快感を重視して作品を楽しみたいのであれば、このシャッフルは悪手に感じるでしょう。それは仕方ありません。上田監督も語っていますが、『ピーチボーイリバーサイド』は要素の多い作品です。そのため観る人によって求めるものが全く異なっても不思議ではありません。

 しかし、自分が何を観たいかすら理解せずシャッフルの奇抜さ故に否定してしまっては勿体ないことです。どうしても観たいものが定まっているのでもないのなら、物語のテーマを読み解くことに楽しみを見出すだけの余裕を持った方が得というものです。物語に付き合ってテーマを見出すことは、『ピーチボーイリバーサイド』ほどでないにしろ対立に満ちた世界で、少し寛容になれる貴重な機会なのですから。

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 アニメ版のテーマを提示するためOA1話は時系列順の2話となりました。OA2話はそこから地続きの時系列3話であり自然な流れです。しかし、OA3話には時系列順なら9話の内容が来て、一気に構成の歪さを増します。

 もう一度上に書いたOA3話(9話)の内容を振り返っておきましょう。

サリーは「鬼を皆殺しにしようとする人間」ミコトと「人間との共存を目指す鬼」皇鬼の二者択一を迫られる。

 もちろん他にもたくさんのことが描かれています。そして4話から8話の内容をすっ飛ばして9話の内容を描いているので、よくわからない部分は出てきます。ホーソンが仲間になっていることはOA2話のラストでも十分に分かるとして、そのラストでだいぶショッキングなことがあった割に彼の立ち直りが早いと感じてしまうし、力を失った鬼・キャロットの心情もすっ飛ばした内容に基づくためわからない部分が出てきます。そもそもキャロットはOA2話まで眼鬼と呼ばれているので、なぜ名前が変わっているのか疑問になります。

 しかし、それらが作品へマイナスを及ぼすリスクを覚悟してでもOA3話は9話の内容になりました。それは上に書いたサリーの二者択一が物語のテーマに根差した重要なものだからです。このOA3話のサブタイトルが「サリーと岐路」であることからも、作品にとっての重要性が読み取れます。

 一旦整理してOA1〜3話の根幹部分を簡単に書くと次のようになります。

「差別」が存在するなど、種族間の対立に満ちた世界を提示する

主人公に「対立派の同種族」と「共存派の異種族」という二者択一が突きつけられる

 続くOA4話は時系列順の1話です。前述した通りこの話は「対立派の同種族」改めミコトが主人公で鬼と対立する話と捉えられますが、OA1〜3話の後に挿入されることによって「なぜサリーはミコトを追うのか」という説明になります。するとサリーが主人公という前提が崩れないし、サリーにとってのミコトの存在が明らかになることでOA3話の選択肢に対する考慮材料となります。

 OA5話も考慮材料です。ここで登場する吸血鬼は人間を愛した過去という「鬼と人間の共存の可能性」、そしてその過去が悲劇に終わったことから「鬼と人間の決定的な断絶」の両方を示します。これはサリーにとっては未来の、シャッフルされた物語を見る視聴者には既に提示された選択肢への考慮材料となります。サリーはにんじんを渡されて時間を空けてからカレーを作ると教えられたけど、視聴者は先にカレーを作ると伝えられてからにんじんを渡された。シャッフルの理屈をそういう風に説明することもできます。

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 ミコトと髪鬼の邂逅という一種の「鬼と人間の関係性」を描くOA6話を経て、OA7話はOA2話から地続きのエピソードです。この話でサリーは「対立に満ちた世界に立ち向かう」という旅の目的を見出します。物語にとって人物の目的が重要であることは言うまでもありません。このOA7話の内容は世界に対するサリーのスタンスとして、OA3話で提示された選択肢の最大級の前提条件となります。

 ここまで書いてきた「シャッフルの理屈」をまとめてみましょう。

対立に満ちた世界を提示する(OA1〜2話)

「対立派の同種族」と「共存派の異種族」という二者択一が突きつけられる(OA3話)

ミコトや鬼について、さらに人間と鬼の関係性について、二者択一への考慮材料を与えられる(OA4〜6話)

OA1〜2話で提示され、OA4〜6話の考慮材料で補強された作中の「世界」に対するサリーのスタンスが示される(OA7話)

 そしてOA8話で二者択一への回答が描かれます。ここまで書いてきたOA7話までの意図を踏まえれば、OA8話で描かれるサリーの言動には説得力があり、アニメで統一させたテーマを強く感じることができます。踏まえればというより、OA8話を見た時点でOA7話までの放送順の意図に気付ける作りになっているのです。惜しむべきは、大半のアニメ視聴者は目の前のエピソードを鑑賞するのみであり、既に終わった話数の放送順の意図なんて読み解こうとしないという事実でしょう。




 OA9〜10話でOA3話及びOA8話に直接繋がるエピソードが描かれ、アニメのクライマックスとなるOA11話には時系列順で言えば5話及び6話の内容が配されました。

 その内容を確認します。

5話(OA11話) 4話(OA7話)の展開から一行は魔女が暮らす森へ。森には互いに対立する爬人とエルフの一族がいて、彼らは共に封印された鬼を倒そうとしていた。

6話(OA12話) 5話(OA11話)の続き。封印を解かれた鬼との戦闘。戦いの後、サリーは4話(OA7話)で見出した旅の目的の先にある理想を明確にする。

 このエピソードでは強大な力を持つが故に人々から恐れられる魔女、互いに対立する爬人とエルフ、そして人間を憎む鬼や対立に満ちた世界へ立ち向かおうとするサリーが描かれます。彼らの対立や協力を包含した戦いの果てに、サリーはある光景を目にします。それはOA7話で描かれたサリーの目的、あるいは理想に対するひとつの回答でした。OA3話で提示されOA8話での回答に至るまで視聴者が考える環境を丁寧に整えた問題に対して思い浮かべるべき道標でした。

 これこそ上田監督がインタビューで語った「ちょうどお話の終わりにするのに最適なシーン」なのです。





 どうにかOA12話まで書けました。これで「シャッフルの理屈」の完全形を明らかにできます。

対立に満ちた世界を提示する(OA1〜2話)

「対立派の同種族」と「共存派の異種族」という二者択一が突きつけられる(OA3話)

ミコトや鬼について、さらに人間と鬼の関係性についてといった二者択一への考慮材料を与えられる(OA4〜6話)

OA1〜2話で提示され、OA4〜6話の考慮材料で補強された作中の「世界」に対するサリーのスタンスが示される(OA7話)

OA3話で思考を開始し、OA4〜7話で考慮材料を与えられた二者択一への回答が示される(OA8〜10話)

OA10話までに明確となったサリーの旅の目的に対する理想が提示される(OA11〜12話)

 アニメ『ピーチボーイリバーサイド』は対立に満ちた世界にサリーが挑む物語です。だからOA2話までに世界を提示すると、すぐさまOA3話で二項対立の一方を選ばなければならない状況が描かれました。重要な二者択一について最も考えやすい形で時系列はシャッフルされ、最後には選択の先にある理想が提示されます。

世界には対立が存在する。話し合ってわかりあえない相手もいる。けれども、そんな世界の中でも対立せず、異なる人々がわかりあえる景色は必ず存在する。

 これがアニメ『ピーチボーイリバーサイド』のテーマでした。時系列シャッフルはそれを最大化して伝えるために行われました。その意図は成功していたと、僕はそう思います。

 時系列順に放送していたらサリーたちの冒険物語としてはわかりやすかったでしょう。キャロットの心情の変化という、テーマとも密接に繋がる部分を追うなら時系列順に見るべきです。サリーやミコトたちが鬼と戦い、時として差別や対立について考える冒険物語として、時系列順でも十分な面白さを発揮できた。

 けれどもテーマはぼやけてしまいます。原作も未完であるが故に物語の途中までしか描けず、不十分なエピローグしか用意できないからです。時系列順に12話まで放送した時、サリーの冒険はまだまだ途中で、彼女が抱いた理想が実現できたかどうか不明瞭なまま終わってしまいます。これでは原作モノという「コンテンツ」がどうしてもぶち当たる「形式」の壁を超えられません。

 時系列シャッフルによって原作未完と尺の都合に伴う不都合の本質が変わるわけではありません。それでも果たされるか不明瞭なサリーの理想に対し、果たしうるというメッセージを明確にすることはできます。そして物語が見せるこの種のメッセージは、水槽の向こうの作中世界を超え現実に響く力を持っています。

 このアニメのテーマをもう一度繰り返しましょう。

世界には対立が存在する。話し合ってわかりあえない相手もいる。けれども、そんな世界の中でも対立せず、異なる人々がわかりあえる景色は必ず存在する。

 現実と真摯に向き合って対立の苦しさを受け入れつつも、理想を肯定する優しく力強いメッセージを明確にすることこそがシャッフルの理屈です。エンターテインメントとして「形式」の壁を超えようとするだけでなく、壁の向こうの現実に作品のテーマを響かせようとする上田監督を始めとした作り手の熱量は、ストーリーやキャラクター等の要素にも劣らない魅力を作品に付与してくれたと思います。

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 時系列シャッフルという手法の前提には、「形式」の壁を超えようと志向しつつも、原作を作り替えることはしたくないという上田監督の思いがありました。これはひょっとするとアニメという原作とは異なる形式のコンテンツを作る立場としては逃げていると言えるのかもしれません。時系列をシャッフルするくらいなら原作ファンも納得するオリジナル展開を作らなければならないという信念を持った人には、否定されざるを得ない手法だったということです。

 でも僕はそう思いません。『ピーチボーイリバーサイド』というコンテンツは、そのままで素晴らしく面白いからアニメ化されたのです。その面白さを存分に伝えることが上田監督に課せられた最大の仕事で、全12話の尺しかないアニメでオリジナル展開を挿入することは不純物を加えるだけのことです。

 だから僕はアニメ『ピーチボーイリバーサイド』が採用した時系列シャッフルという手法を肯定します。「コンテンツ」が「形式」の壁を超えるための挑戦をして誰かに物語を届けようとした上田監督たちに対して、届けようとした誰かはここにいると、世界の片隅ではありますが主張します。





 しかしTwitterなどで検索する限り、多くの視聴者にはシャッフルの理屈が理解されなかったようです。他人が理解したかどうかなんて僕が気にしても仕方のないことですが、それでも一抹の寂しさを覚えます。アニメ『ピーチボーイリバーサイド』は作品そのものに瑕疵があって理解されなかったわけではないのです。ただ読み解いてもらえなかった。それだけです。読み解いてもらえるものを作らない方が悪いと言えるかもしれませんが、そんなことを言っていたら世の中のアニメはどんどん均一化され、物語としての性質を失って単なる製品に成り下がるだけです。

 こんなことを思うのは百名哲先生の『演劇部5分前』という演劇にまっすぐ向き合った漫画の1シーンを思い出したからです。このことが今回の記事を書こうと思うきっかけでした。

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 このシーンは大会に挑むための脚本を書き上げその出来の良さを評価されつつも、審査に加わる高校生には読み解いてもらえないことを指摘されるという内容です。理解の可否、好き嫌いの印象、出来の良し悪しはそれぞれに別物ですが、現実には区別されない場面が多く存在します。

 物語の楽しみ方は人それぞれです。誰もが全ての物語を読み解く努力をしなければならないわけではありません。しかし「好き嫌いと出来の良し悪しを区別できない」ことは受け手として誇れることではないし、時として作り手へのリスペクトを欠くことに繋がります。だから僕は物語を読み解く努力をしたいと思うし、その姿勢の末に見つけられた『ピーチボーイリバーサイド』のシャッフルの理屈について、誰かの目に触れられる状態にしたいと思ったのです。





 こんな場末の記事にあれこれ書いてあっても、じゃあ自分もシャッフルの理屈を読み解いてみるかとはならないかもしれません。それはそれで良いです。むしろここまで長々と書いてあって読んでくださったことに平身低頭感謝いたします。『ピーチボーイリバーサイド』の話をすると言ってアグネスデジタル云々から始まった記事をよくここまで読んでくれましたよホント。

 とにかくこんな場末であっても僕は主張したいだけなのです。『ピーチボーイリバーサイド』は素晴らしい作品だと。原作の魅力はもちろんだし、アニメも「形式」の壁に挑んだ素晴らしい「コンテンツ」だと。その制作の陣頭に立った上田繁監督はすごいぞと。

 上田監督は驚異の作画崩壊や年を跨いだ放送延期で歴史に名を残した楠木ともりさん初主演アニメ『メルヘン・メドヘン』の監督で、その点については良い印象を持つことが難しいかもしれません。

 しかし『メルヘン・メドヘン』『ゲキドル』そして『ピーチボーイリバーサイド』と、いずれも物語のテーマを大切にしてコンセプトが明確に見えるアクアリウムのような作品を生み出し、込められた何かを読み解くことに楽しさを感じさせてくれるクリエイターなのです。彼の作品と対峙したとき、僕たちは対立に満ちた世界で少し寛容になって、そうなることを良いことだと思えるのです。

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 それではデジたんよろしく推しについて布教もしたということで今回はこのへんで。前後編に分けましたが『ピーチボーイリバーサイド』の話は殆ど後編だけでしたね。とはいえ前編の内容も十分に重要なつもりなのでどうぞよしなに。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。また別の記事を書いた時には読んでもらえると嬉しいです。


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