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「コンテンツ」が「形式」の壁を超えるための挑戦 アニメ『ピーチボーイリバーサイド』を検証する(前編)

「原作モノの場合は仕方のないケースも多いんですが、最終話の最後の数分になって急にいい感じにまとめに入る展開があまり好きではないんですよ」

 これはアニメ『宇宙よりも遠い場所』のファンブックに収録されているインタビューから、同作のプロデューサーを務めた田中翔氏の言葉です。

(このファンブックやたらと高騰してるらしいですね)

 2018年に全13話が放送された『宇宙よりも遠い場所』は漫画やライトノベルなど他のコンテンツに原作を求めないオリジナルアニメで、南極を目指す4人の女子高生を中心に何かへ踏み出すことの素晴らしさを描いた2010年代を代表する傑作です。

 上述のとおり全13話の構成ですが、12話で本筋のピークを迎え、最終回となる13話は全編がエピローグとなっています。冒頭で引用したのは、そのことについて語った言葉です。



「終わった後に続きがどうなるんだろうとワクワクさせること以上に、ああ終わってしまったなとワクワクとは対極の寂寥を纏った余韻と共に、美しく完結することにこそ作品の価値がある」

 この名言はとある名作アニメで監督を務めた人物の……ではもちろんなく、三宅日向よろしく僕が即興で作り出したものです。

 ただ、徹頭徹尾ふざけて書いたものでもなく、僕がアニメを見る際の一種の尺度を表していたりもします。極端に言えば、僕は最終回が終わった後に「2期を観たいな」と思う作品より、「この終わり方じゃ2期は望めないけど全て消化したな」と思える作品の方が優れていると考えています。



 アニメとはアクアリウムのようなものだと思うことがあります。何かのテーマを持った脚本が美しい作画や声優の演技や多彩な劇伴や列挙しきれない多くの要素に彩られていく様子は、水中に理想の空間を作り上げていく過程と共通するように感じます。そして、アニメというアクアリウムを“arium”たらしめるもの、すなわち水槽の役割を果たすのがエピローグです。

 水槽は水中に作り上げた空間を外界と切り離します。水槽があればこそアクアリウムはひとつの芸術的作品として「規定」されます。一方、この「規定」は「限定」という意味も内包します。アクアリウムの本質は外界との境界にある水槽ではなく、その中に見える空間です。その空間は水槽の存在でガラスより向こうへの広がりを失ってしまいます。

 作品を余さず味わうのであれば、水槽への拘りも含めた全体を外界から俯瞰すべきでしょう。しかし、水中の世界を観ることで浸りたいというのであれば、水槽を邪魔に感じるかもしれません。これは感性の差異であって優劣はありません。まさしく好みの問題ですが、僕の好みを表現したものが上に書いた僕の名言(?)です。今回の記事はこの好みに沿って書いていきます。




 『宇宙よりも遠い場所』は最終回を丸々エピローグに当てました。それは12話までに描いてきた南極への旅路とそれに付随する人々の感情という壮大な世界に対し、「最後の数分になって急にいい感じに」作り上げる程度の水槽ではあまりに貧相で見劣りしてしまうからです。

 これは『宇宙よりも遠い場所』というアクアリウムが持つ「中身」が素晴らしかったということですが、そもそも自主制作アニメならともかく、テレビで放映されるアニメはある程度の数の人々が「面白い」「話題になりうる」といったポジティブな判断を下さなければ制作も放送もされません。だから世の中で放送されているアニメは好みの差こそありますが、そのどれもが「中身」として魅力を発揮するポテンシャルを持っています。

 そうであるならば、あらゆるアニメにとって各自のポテンシャルを発揮し魅力ある作品として完成するか否かを左右するのは、水槽の存在ということになります。少なくとも『宇宙よりも遠い場所』においてはプロデューサーの田中氏や監督のいしづかあつこ氏、シリーズ構成の花田十輝氏といったスタッフ陣がそう判断したからこそのプロットとなっています。





 だったら全てのアニメが最終回を丸々エピローグに充てられれば水槽が中身に見劣りするといった事態は起こらないと言えますが、もちろんそんなことは不可能です。

 もう一度冒頭で引用した田中氏の言葉を振り返ると、前提として「原作モノの場合は仕方のない場合も多い」と語られています。ここで言う「原作モノ」は、『宇宙よりも遠い場所』とは違って漫画やライトノベルなど他のコンテンツが原作となっているアニメを指します。

 なぜ「原作モノの場合は仕方のないケースも多い」のか。これも全ての例を一概に説明することは不可能ですが、基本的には原作で描かれている要素を拾わなければならない中でエピローグにばかり時間を割けないという「尺の問題」が大きいでしょう。また、原作モノのアニメはそもそも原作が完結していない中で制作されるものも多くあります。その中で続編も睨むアニメが最終回を丸々使うほどの大きなエピローグを描けないといった事情もあるでしょう。



「形式はコンテンツをある程度規定し、コンテンツは形式を選ぶ」

 これは別の記事でも引用した記憶がありますが、かつて舞城王太郎先生の『短篇五芒星』が芥川賞の候補となった際に選考を「棄権」した村上龍先生の言葉です。

 村上先生はこの言葉によって短編集という形式のコンテンツを他作品と同列に選考するのはフェアではないと言いたかったわけですが、僕がこの言葉を引用するのはコンテンツと形式の関係性が実に正しく表現されていると思うからです。

 原作モノの原作は、元々アニメとは別の形式で作られたコンテンツです。だからアニメ化すると原作とは異なる形式で「規定」されることになるし、そもそも原作のコンテンツはアニメで表現するのに向いているのかどうかという相性の面で形式を「選ぶ」ことになります。

 だから原作モノが「コンテンツ」として魅力を発揮するためには「形式」の壁を超えなければなりません。このオリジナルアニメならば回避できる壁(厳密に言えばオリジナルでも野島伸司氏や麻枝准氏らが脚本を書くなら超えなければならないでしょうけど)の高さは容易に超えられるものではありません。

 僕がここ10年ほどで特に面白かったと感じる『宇宙よりも遠い場所』『SHIROBAKO』『ガールズ&パンツァー』『Vivy ーFluorite Eye's Songー』といった作品はいずれもオリジナルアニメですし、原作モノでもここに並べたいと思う『氷菓』『風が強く吹いている』『響け!ユーフォニアム』といった作品は一冊の中での完成度が求められる小説が原作で、形式としてアニメとの親和性が高いというアドバンテージがありました。基本的に原作モノのアニメは最終回を見た後に「形式の壁を超えきれなかったな」という印象を残してしまいがちで、オールタイム・ベストの候補にはなかなか入ってこないのです。

 ここに書いたのは視聴者としての僕の感覚ですが、恐らく作り手にとっても「形式の壁」は認識されているものと思います。だから原作モノを見ていると、壁とどうにか向き合おうとする意図を感じる作品と出会うことが度々あります。

 そのひとつが、今回語りたい『ピーチボーイリバーサイド』という作品です。

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 ようやく本題に踏み込めた……わけですが、三宅日向曰く「引き返せるうちは旅ではない。引き返せなくなったときに、初めてそれは旅になるのだ」とのことなので、もう少し寄り道して今回の記事を旅にしてみましょう。

 原作モノを作る際に、アニメの制作スタッフは様々な手法で形式の壁に挑もうとします。

 例えばコンテンツ自体をアニメの形式に合うよう作り替える方法。アニメオリジナルの展開が入ってきて、場合によってはアニメ独自のエピローグが描かれるようなものがそれですが、原作ファンからは忌避される傾向にあります。最近だと『約束のネバーランド』の2期はアニメオリジナルだったらしくて、あまり原作ファンから評価されていませんでしたね。僕は原作未読ですが、1期の方が明らかに面白かったと感じました。

 また、作り替えると言えばアニメの尺に合わせるために内容をカットすることもこの方法に含まれるでしょう。これは多かれ少なかれどの原作モノでもやっているであろうことで、原作が完結していても避けることはできません。原作モノを見て「○○が物足りなかった〜」と思っていたら原作ファンが「原作にあった○○を削っていたのが〜」と語っているのはよくあることです。

 そんな中でどこを削るかという部分に作り手のセンスが問われますが、そのあたりへの対応が上手いと感じたのは昨年放送された『無限の住人 ーIMMORTALー』ですね。

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 沙村広明氏による原作漫画全30巻の内容を2クールで制作するとあって最初から尺が足りないとの意見が大半でした。実際に観ていても原作ではもっと描いていただろうと感じる部分が多々あるのですが、それ以上に音と動きがある「アニメという形式でしか作れないもの」を見せてくれたと感じる作品でした。原作モノはどうやったって尺が足りない。なら言葉でなく映像で足りない分を描けばいい――そんな思いがひしひしと伝わってくるような内容、特に最終回は圧巻です。かなりグロテスクな部分もあるので、そこは注意が必要ですけど。

 さて、僕が好きな作品の宣伝をさりげなく挟み込んだところで、『ピーチボーイリバーサイド』について語りましょう。この作品は形式の壁をどのように乗り越えようとしたか。ひとつの方法で全て解決できるはずもありませんが、最たる特徴として挙げられるひとつの方法は「時系列シャッフル」でした。




 まず『ピーチボーイリバーサイド』とはどんな作品か。元々は『小林さんちのメイドラゴン』などで知られるクール教信者氏が描いていたWeb漫画で、その後それを元にしたリメイク作品が別の作者に描かれたという珍しい経緯を持った作品です。アニメはリメイク版を原作としています。

 あらすじについてはアニメ公式サイトから引用しましょう。

昔々のお話です。
ある所におじいさんとおばあさんがおりました。
おじいさんは山へ芝刈りに
おばあさんは川へ洗濯に──(中略)

ついには鬼を退治しましたが、
外国にも鬼がいるようなので…
桃太郎は海を渡りました。

すごいのは倒したこと 喜ぶべきは救ったこと
ただ一つ…駄目だったことは……

────楽しんだこと

これはもしもの話だが……

もし流れてきた大きな桃が一つではないとしたら…
日本に流れてきた桃が
複数あるうちの一つに過ぎないとしたら…

 童話『桃太郎』の続きというコンセプトで、脅威的な力を持ち人々から恐れられる「鬼」と彼らに対抗する力を持った「モモタロウ」の交錯を描いた作品です。それでいて単に人間と鬼のコンフリクトを描くだけではなく、彼ら以外にも異種族がいたり、主人公のパーティーに力を失った鬼が加入したりと、複層的な奥行きのある作風に魅力があります。

 そしてアニメ版の最大の特徴は上述した「時系列シャッフル」です。今回の記事もこれこそが本題ですが、「時系列シャッフル」の狙いを始めとした制作上の意図について本作の監督を務めた上田繁氏が既に語ってくれていたりします。

 このインタビューではシャッフルした最大の理由として「原作が未完であること」が挙げられています。つまり形式の壁です。時系列通りにやれば尺が足りず壁にぶつかる、しかし原作を尊重するためにオリジナル展開を描きたくない、だから監督にとって最も終わりに相応しいと考える場面が最後に来る形で時系列をシャッフルする、というロジックによって本作は特異な放送順となりました(インタビューで語られているように時系列シャッフル自体は『涼宮ハルヒの憂鬱』でも用いられ、この作品に限らない演出ですが)。

 ではその時系列シャッフルは機能したのかという部分を検証する必要がありますが、前置きが長くなってしまったのと、検証するには少し休憩して脳をリフレッシュさせるべきだろうということで、今回はここまでとします。

 次回は『ピーチボーイリバーサイド』における時系列シャッフルの機能の有無(先にリンクを貼ったインタビューの言葉を借りれば「シャッフルの理屈」とも)について考えていきますので、どうかよろしくお願いします。





【9/23追記】
 後編も書きましたのでよろしくお願いします。


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