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「沈黙 サイレンス」を見てぼくが考えたこと

3時間近い上映時間を感じさせない、まさに「力作」だった。

本作「沈黙 サイレンス」は、日本で迫害される切支丹(キリシタン)と宣教師達の物語。遠藤周作による原作を読んではいないものの、「沈黙」というタイトルには色々と考えさせられるものがあった。

タイトルとなっている沈黙とは、端的に言えば「神の沈黙」なのである。長崎で奉行に捕らえられ棄教を迫られるような苦境で祈りを捧げても一向に応えない、主の「沈黙」に対する主人公の苦悩が本作では描かれている。

それはつまり、キリスト教が真実の教えであるにも関わらず否定されてしまう、現実そのものへの苦悩でもある。自分さえ棄教すれば日本人に教えを伝える者がいなくなり、日本のキリスト教徒が拷問されることもなくなる。しかし、教えによって救える命も確かにある。悩みに悩んだ末の主人公の決断が本作の要となっている。

それゆえに、映像化された「沈黙」ではBGMが用いられず無音の状態が多い。主人公は何度も神に問いかけるが、返事は聞こえない。しかし自分は、オープニングからエンドロールに至るまで耐えず音楽が流れているように感じていた。

それは「虫の声」や「海の声」、そして「風の声」である。

劇中で説明されることだが、日本人はイエスのような唯一の存在ではなく「大日(太陽)」を神と考える。八百万の自然そのものが日本人にとって信仰の対象なのだ。神という存在に対する考え方が異なるため、イエスの教えが深く根付かない。

例えば「虫の声」という表現は日本独自の捉え方であり、西洋では環境音としての虫の鳴き声をそもそも意識することがないと言われる。どちらかといえば騒音に近いものとして捉えられるらしい(これは実は日本ではなく「日本語」に特有の感覚)。

本作でもBGMのない無音の状態が多いと述べたが、宣教のために訪れた日本の村には必ず虫や風や海の音が響いている状態であった。しかし恐らく主人公であるロドリゴは、その音に気付かないのだろう。ひらすらに神の声を耳を傾けても、日本人が聴いている「声」を聞き取ることは出来ない。

これをスコセッシ監督が意識したかどうかは分からないが、「沈黙」だと思われている状況にこそ神の存在を見出すのが日本的な宗教観なのだ、と言えるのだろう。そしてそういった宗教観の違いにスポットを当てた上で「それでも尚、神を信じることは出来るのか」という問いに対する1つの答えを見られた気がした。

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