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近内悠太×桂大介(+家入一真+東浩紀) ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与─が面白かった

近内悠太×桂大介(+家入一真+東浩紀) ケアの訂正可能性、そして誤配と贈与──『利他・ケア・傷の倫理学』刊行記念が面白かった。簡単な感想を書く。

正直な話、前半はあまりに理論的な内容でピンと来なかった。しかしながら、後半に入ってからこの番組が面白くなってきた(言論の番組によくあるパターン)。特に、5時間目あたりの質問「酔っ払い贈与はあるのか?」という質問は、会場ではその後あまり発展しなかったが、僕はこれが核心をついた質問であるように思えた。この質問に対して、お二人は「酔っ払い贈与はある。なぜならば、前頭葉を使っていては贈与できないからだ」と答えていた。つまり、贈与というものは頭を使って意識的に行うものではないのではないかということである。

これは、贈与は慈しみや哀れみといった感情に基づいて行うと言うこともできるかもしれない。確かにそのような部分も含まれていると思う。しかし、ここでは理性の限界という観点から贈与について述べてみたいと思う。

理性というものは、一見万能に思えるが、そうではない。理性が行っていることは突き詰めれば最適化である。そして、この理性の個人差は最適化のスケール(範囲と時間軸)に依存するように思える。他人から理性的だと思われる人間は、そのスケールが大きい。一方、そうではないと思われる人間はそのスケールが小さい。自分の人生の長さよりも長いスケールで考えられる人はほとんどいないので、結果として理性的な人が得をしているように外側からは観察される。

最適化という意味で理性は万能のように思えるが、実はそうではない。当然、個人によって許容できるスケールの違いはあるし、そもそも問題を認知できなければ最適化を始めることすらできない。ここに限界がある。

では、認知できない問題に対してどう対応すれば良いのだろうか?いくつかアプローチ方法が考えられる。その1つは意図的に理性を手放すということである。要約すると、酔っ払うということである。贈与の文脈で述べるならば、考えることをやめ、周りを信じて手放すことになるだろう。また、ランダム性を導入するということも考えられるだろう。

桂くんが主催している新しい贈与論というコミュニティーが取り組んでいるタスクの1つが、この認知できない問題に対してどう贈与を使って解決するかということであるように僕には思える。言い換えるならば、わかっていないことがわかっているからこそできるアプローチだと思う。

また、家入さんの内なるモチベーションについての話も興味深いものであった。次回は、家入さんと桂くんとチベット仏教のお坊さんの3者対談を聞いてみたいと思う。家入さんと桂くんは本当に貴重な実践者だ。

余談になるが、最近ボランティアや寄付に少しだけ関わるようになってきた。外側から観察すると、僕は贈与を行っているように見えるのかもしれない。ただ、僕本人の意識としては、贈与をしているという意識はなく渡されたパスを別の誰かに渡しているという心持ちである。むしろ、負荷を手放したという気持ちの方が大きい。誰かから受けた贈与を渡してくれた本人ではなく、別の誰かに返す。おそらくこのようなことを行うことで社会は回っているのだろうと思う。

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