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ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」を要約する

本書のタイトルである「資本主義の次に来る世界」を知りたくて本書を手に取った。本書は環境生態学の知見をもとに世界が向かうべき先を提示している。一方でエコファクトから語られる環境生態学の側面、他方でデカルト二元論vsアニミズムを核として展開される哲学的な側面の両面から語られる。本書を解読することで「資本主義の次に来る世界」とは何か考えてみたい。

1. 環境生態学の側面

本書で語られるエコファクトは以下のようなものである。

・大量の農薬散布によりドイツ自然保護区の昆虫の4分の3が消えた。フランスでは農業地域における昆虫の減少により、わずか5年間で鳥の平均個体数は3分の1に減った。

・2018年、日本ではミミズのバイオマス(生物量)が33%も減ったことを明らかにした。ミミズが死滅するにつれて土壌が含有する有機物は半減した。

・海洋の酸性化海水のPH(水素イオン濃度)は0.25低下したことにより海生生物種の5%が絶滅した。現在のCO排出のペースが続けば、海水のPHは今世紀末までに0.4低下するだろう。

自然の中では独立して存在しているものはなく、各々が連関しあって生きている。一つの環境破壊がドミノ倒しに多くの環境破壊に繋がる。自然の均衡が崩れるティッピングポイントは予想以上に早く訪れるかもしれないとヒッケルは述べる。一例として、海洋性水崖不安定と呼ばれる現象がある。これまでの気候モデルの大半は、温暖化による西南極の氷床の融解は数百年かかると想定されていたが、2016年にはアメリカの2人の科学者が「ネイチャー」誌においてそれはもっと早く起きると予測されている。(22項)

このような言説は最近始まったことではない。人間の活動が気候変動をもたらすという科学的コンセンサスは1970年代半ばに形成され始め、1979年には初の国際気候サミットが開かれた。1992年には「国連気候変動枠組条約」(UNFCCC)が採択され、温室効果ガス排出に削減目標が設定された。国際気候サミット(COP)は1995年以降、排出削減交渉を目的として毎年開催されている。COPの枠組みは、1997年の京都議定書、2009年のコペンハーゲン合意、2015年のパリ協定と3回にわたって拡大されてきたが、世界全体のCO排出量は年々増え続けている。ヒッケルはこれまでの環境対策は不十分であると言う。

なぜ環境対策は成功しないのか。ヒッケルはその理由を高所得国が「構造的な成長要求」に支配されているからだと述べる。1944年のブレトン・ウッズ会議でGDPが経済発展の重要な指標として正式に認められた。それから各国は競うように経済成長を推進した。1970年代後半になると西側諸国の経済成長は減速を始めたが、公共部門の民営化などにより成長が維持された。1980年代にはアメリカのロナルド・レーガン大統領とイギリスのマーガレット・サッチャー首相が新自由主義を掲げた。以降、成長を持続するためのあらゆる工夫が成され、それは環境対策より重要なものとして置かれている。

ヒッケルの主張はこうである。我々は十分な環境対策をするには「構造的な成長要求」から脱却するしかない。そして、正しい分配が機能することで豊かさを維持できる。我々はすでに地球人が豊かに暮らせるほどの食物を算出している。ロスを減らし、共有することで全員が豊かになり、環境対策もできる。そのためには高所得国が過剰な資源採取とエネルギー利用を止めることが重要である。現在は一部の富裕層が圧倒的にエネルギーを消費している状況にあるからだ。資源の消費を減らせば、生態系にかかる圧力が減り、クリーンエネルギーへの移行もより早く達成できる。

2. 哲学的な側面

我々はなぜ「構造的な成長要求」に支配されるようになったのか。ヒッケルはその起源を近代初期に見出す。引用されるのはデカルトとスピノザである。デカルトは身体と精神を分離し、精神に重きを置いた。身体は精神によって操られ、精神に服従するものである。この考え方は二元論と呼ばれる。精神をもつ人間さ神に選ばれし特別な存在として、その他の生物の上位に位置する。デカルトは自らの主張が正しいことを証明するために生きた動物を解剖した。動物の四肢を板に釘で打ちつけ、臓器や神経を調べた。とりわけグロテスクなのは、妻の飼いイヌも解剖したことだ。

デカルトは「近代哲学の父」とされ、当時の思想に大きな影響を与えた。こうして人間が地球上の生物を支配することの正当性を獲得し、近代思想が世の中に定着していったとヒッケルは述べる。デカルト思想の潮流を受けたイマヌエル・カントは、1700年代の末にこう記している。「人間以外の存在に関して、わたしたちに直接的な義務はない。それらは目的のための手段としてのみ存在する。その目的とは人間である」77項

一方、デカルト思想に異を唱えた者がいた。スピノザである。スピノザはありとあらゆる事物が神の変状だと唱えた。ここで神は一神教のような神ではなく、自然(nature)を指す。スピノザ思想は一般的には汎神論と解釈され、人間の精神(上位)が動植物(下位)を支配するという構造とは異なる。ヒッケルはスピノザを援護する。スピノザをアニミズム的思想の代弁者として扱う。(しかし、これはスピノザの思想を誤用しているようにも見える。)

ヨーロッパは岐路に立っていた。道は二つ。一方はデカルト、もう一方はスピノザへと続いていた。やがて教会と資本家の全面的な支援を得て、デカルトの思想が勝った。その思想は、支配階級の力に正当性を与え、彼らが世界に対して行っていることを良しとした。その結果として現在、わたしたちは二元論に基づく文化の中で暮らしている。しかし別の道もあったはずだ。わたしはふと、スピノザの思想が主流になっていたら、この世界はどうなっていただろうか、と考える。人々の倫理観はどうなっていただろう。経済は? もしそうなっていたら、わたしたちは生態系の崩壊という悪夢に直面していなかっただろうか。

ジェイソン・ヒッケル 『資本主義の次に来る世界』 東洋経済新報社 p.270

所感

本書の核心は近代思想史に異を唱えることではない。成長を第一の目的とする新自由主義にどのように立ち向かうのか、ということである。それは近代的世界観との闘いであるし、それも人々に受け入れられる方法で提示されなければいけない。そうでなければヒッケルの言うことは「理想論」で片付けられてしまう。ヒッケルは成長から脱却することで環境に配慮しつつ、今より豊かに生きられるという。しかし、理論では分かりつつも、多くの人は実現困難だと思うだろう。本書も資本主義の一ベストセラー本として処理されてしまうだろう。本当に世界に環境問題を訴えたいのであれば、ヒッケルは理論ではなく実践を提示すべきだ。

しかし、ヒッケルのように資本主義に異を唱える主張が年々増えているのは確かだと思う。環境活動家グレタ氏のニュースをよく目にする。日本で感じるよりも遥かに高い温度感で資本主義妥当は掲げられているのだろう。そして、本書が日本にも入ってきてランキング上位に名を連ねている。このような小さな変化の連続がいつか大きな改革をもたらす気がする。本書を読むことで環境活動家がどのような思想を持っているのか一例を学ぶことができた。「資本主義の次に来る世界」が具体的にどのようなものかは引き続き考えていくべきだが、少なくとも資本主義のベースが崩れ、次の世界が来る可能性を感じることは出来た。

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