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宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』を要約する

本書が刊行されたのは2014年。日本はグローバル化と情報社会化の潮流を受け、共同体の空洞化が進んでいく。2008年にはリーマンショック、2011年には東北の大震災・福島原発事故などを経験し、得体の知れない不安の中で、個人としてどのように生きるかという実存的問題が人々の関心のテーマとなり、書店では自己啓発本が飛ぶように売れた。宮台は戦後以降の日本にフォーカスし、「社会がどこから来て、どこへ向かうのか」が展開される。


1. 加速化するバトルロワイアルの時代

宮台はマックス・ウェーバーを参照し、コミュニケーション空間を<生活世界>と<システム>に切り分ける。前者は「善意&内発性」が重視され、家族や友達など顔の見える=記名的な関係性である。後者は「役割とマニュアル」が優位する。相手が誰であれ、マニュアルに従って行為する顔の見えない=匿名的な関係性である。<生活世界>においての関係は一人ひとりが代替の効かないものなので無下にはできない。それは気遣いにより関係が持続され、時には面倒なものである。一方で<システム>においての関係は匿名であり、マニュアル外のことをする必要はない快適便利なものである。戦後の社会を分析すると、<生活世界>は60年代の〈団地化=地域空洞化×家族内閉化〉と80年代の〈ニュータウン化=家族空洞化×市場化行政化〉の2段階で浸食されてきた。さらに、90年代には急速に〈市場化行政化〉によって違法的な場所も消去され、仲間とともに<システム>の外部に出るような体験が一掃された。今では数少ない「お祭り騒ぎ=無礼講」は存続しているが、○○ハラスメント防止の潮流により、かなり浄化されたもの=マニュアルチックになっている。

更に情報技術の進展が<生活世界>の空洞化=<システム>の全域化に拍車をかける。大資本企業の効率化を経て、買い物は自動化し、商店街が次々にシャッター化。人生相談をする場も必要なく、転職サイトのAI導入によるキャリア診断がなされる。合コンの数も減少し、マッチングアプリが主流となる。これらは<システム>の拡大によるものであり、マニュアルチックな関係の上で構築される。マニュアル外のことをする必要はなく、上手くいかない場合はリセットすればいい。<システム>における関係はすべてリセット可能性を視野にいれて実施される。ここでの社会はいかに<システム>に定められた「役割とマニュアル」通りに上手く立ち振る舞うかがポイントであり、あなたの個性は<システム>に従って評価される。<システム>に優良と診断された個性だけが生き残り、あなたが本来的にどう生きたいかという問題は面倒であり排除される。

このような価値観は文化的側面にも現れており、宮台は見田宗介を参照して説明する。見田宗介によれば、戦後のサブカルチャーは、「理想の時代」(敗戦から1960年)から「夢の時代」(60年から25年)を経て「虚構の時代」(15年以降)に至る。宮台はこの図式を精密化し、「理想の時代」を「<秩序〉の時代」と呼び、「夢の時代」を「〈未来〉の時代」と呼び、「虚構の時代」を「自己〉の時代」と呼ぶ。さらに「〈自己〉の時代」を「セカイ系」と「バトルロワイアル系」に分派する。前者は虚構の現実化=〈異世界化〉を目指し、後者は現実の虚構化=〈演出化〉を 目指すという根底に違いがある。

1945~1960年代:秩序の時代
 概念:孤児の少年が活躍して秩序を乱す悪を退治する
1960年代~1980年代:未来の時代
 概念:人間たちの秩序自体が悪である。ここではないどこかの追求
 作品:『ゴジラ』『ジャングル大帝』『ウルトラマン』
1980年代~現在:自己の時代  
 概念:「世界の謎」を「自己の謎」と等置する
 作品:『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』
現在:加速化するバトルロワイアルの時代
 概念:自己の〈ホメオスタシス〉のために現実をゲームのように生きる
 作品:『デスノート』『女王の教室』『ドラゴン桜』

特に2010年代後半ではYoutuberとして現実世界で成功をした人をきっかけに、趣味によって現実を強く生きる人々が目立つようになった。それにより<現実>の虚構化を目指すバトルロワイアルへの参加者が急増している時代と言える。

2. 社会貢献より自己実現の人々

<生活世界>が<システム>に浸食されると、人々は自らが代替可能なものであることを意識するようになり、実存的な不安に悩まされるようになる。経済的に豊かでありながらも、他国と比べて高い自殺率となっていることがよく取り上げられる。顔の見える社会から承認欲を満たせなくなった人々は、現実をゲームのように生きクリアを重ねることで実存的不安を紛らわすようになる。人々は身近な共同体をさらに信頼することはなくなり、一番の関心事はNetflixやYoutubeから自己満足を得ることになる。ここから未婚化・晩婚化の問題や、恋愛をしない若者、孤独死をする老人の社会問題が発生したり、さらにゲーム感覚で殺人をする非社会的な人間が生まれるようになる。

成熟した社会では日本に限らず、海外でも同じ事態に陥る。アメリカ社内の分断や、欧州で台頭するポピュリズムも上記のような<生活世界>の減少=共同体の空洞化に要因がある。しかし、このような問題に直面した時に解決する手段は国によって定型があり、米国では結社主義郷(トクヴィル主義)、欧州では共同体主義(スローライフ)が挙げられる。米国の場合、共同体は家族を中心とする繋がりによって維持される。社会が危機に陥った時に立ち返る場所=家族的なプラットフォームが崩れない限り、社会は荒れることがあっても腐ることはない。欧米ではギルドのような共同体を重視し、巨大資本に<生活世界>を浸食させない対決が支持される。GAFAを中心とするビッグテックが欧州規制に引っかかるのはよくあること。こうして<システム>の全域化を防ぐことで顔の見える社会を維持しようとするのである。一方で日本にはそのようなプラットフォームがない。丸山眞男のいうように日本には「皆が前提とするはずだと皆が思う事柄」には抗えない〈心の習慣〉―空気の支配がある。一度、<システム>が全域化してしまえば、それは<システム>の上でマニュアル通りに行動すべきだという空気の支配には抗えない。こうして日本では共同体の空洞化に抗うメインストリームの方法は存在しないことになる。

日本には「宗教的良心への信頼」はありません。日本は欧州と同じく政府部門の不完全をローカリティが埋め合せてきました。ところが小泉改革によって最後のローカリティ=(生活世界)が破壊され、なおかつ超越神をベースとする「宗教的良心への信頼」もありません。そんな社会で優勝劣敗的なネオリベ路線を継続すればどうなるか。当然「何でもあり」となります。だから〈国家や社会を草刈り場とする各種エージェントの権益争奪戦〉が延々と生じ、全体性をウォッチするエージェントがいなくなり、そのことがもたらす無方向無定型な変化ゆえに〈不安のポピュリズム〉が蔓延し、それを餌として権益争奪戦が増幅していく、といった体たらくになるわけです。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫 p.249

3. パターナリズムが陥るジレンマ

こうして<システム>への全面的な依存が定着してしまうと行動を変えるのは難しい。マニュアル通りに過ごしたほうが高コスパ・低リスクなので、人々は<生活世界>から遠ざかっていく。例えば、困っている人に対して無償の援助をするのはマニュアル的に不要なので、それは損だと見なされる。こうして<生活世界>もシステム上の損得勘定で行動が決定されるようになり、社会の内部から<生活世界>を回復する手段を失ってしまう。

この状況を打破する手がかりとして「パターナリズム」が挙げられる。マニュアル通りにやれという空気の支配に打ち勝ち、かつ、損得勘定ではなく善意&内発性によって行動する父性的存在である。こうした「KYでお節介」な人を中心に<システム>を揺るがすことによってマニュアルチックな行動前提が崩れ、人々は自分の頭で考えて行動するしかなくなる。極端に言えば、災害や停電でシステムが機能不全になったとき、人々が協力しあって生き延びることのように、お祭りのような非日常=システムの外に出るようなイベントを通じて、<生活世界>を取り戻すきっかけを与えるのである。

伏見憲明氏が証言するように意識的な方向転換であり、「新しい社会運動」のモデルケースです。「何でもいい、祭りに来てくれ」というスタンスで祭りをやり、祭りの経験を事後的に共通前提へと作りなし、事実的にコネクションをもたらす。かくしてコミュニケーションの生起確率を上昇させ、結果的に政治目標に近づく。このやり方を拡げる必要があります。そこでは祭りの企画者が、前述のプラットフォーム問題に意識的になる必要があります。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫 p.267

ここで祭りの企画者=父性的存在が<システム>全域化による<生活世界>の減少→共同体の空洞化という問題に意識的になる必要がある。また、人々のマニュアル的行動を崩すという意味で煙たがられる=システム内では父性的役割を引き受けるメリットが調達できないので、あくまで<生活世界>からお節介として供給するしかない。果たして、誰がそのような役割を引き受けるのか。宮台のような存在は稀であり、父性的存在による<システム>の揺るがしを一般化することはできない。現状、当番制として幹事を順番に回していくことが挙げられるが、少子高齢化が進むにつれ、文化を継承すべき若者が面倒な共同体から離れてしまう。一方で、教育のように<システム>の内側から父性的存在を育成しようとすると相応な報酬を与えるしかなく、<善意&内発性>から行動するという本意から逸れてしまう。

宮台はこのジレンマに対して、完璧な方法ではないけれども、<システム>の内側に<生活世界>を埋め込むことを肯定する。これは「当然世代間の論争を呼び起こす」ものであるとされるが、消去法的にそれしかないというのが現状の答えであるように見える。システムに埋め込まないと理論は一般化できず、持続的では無くなってしまうのだ。

生活世界が全面的に〈システム〉に侵食された段階では、素朴に〈生活世界〉を肯定し、〈システム〉を否定することに意味はありません。〈システム〉自体が生き残るためにこそ、昔の〈生活世界〉の等価物を創り出し、〈システム〉に埋め込む。この動きを僕は肯定します。この〈生活世界〉モドキの是非は、当然世代間の論争を呼び起こすでしょう。「台場一丁目商店街」に行けば、若い人は満足しても、僕のような年長者は「全部がモドキだ」と感じます。デジタルによるアナログのシミュレーションにしても、もう少しうまくやれと要求することになります。しかし、それしかない。そこから先は「多様なる幸せの共生」ということで、過剰なゾーニングを回避しつつ、棲み分けるしかありません。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫 p.277

4. 社会という荒野を仲間と生きる

上述の問題を一般理論として語るには限界がある。宮台もそれを意識しており、一般理論の追求は「ロマン主義が神の如き全体性に近づこうとして普遍性を追求するのと対照的」だと述べる。一般理論を提示した過去の偉人として、人文諸科学ではフーコー、レヴィ=ストロース、ラカン、アルチュセールなど、経済学ではケインズやサミュエルソンやドブリュー&ハーンなど、社会学ではパーソンズやルーマンやシュッツなどが挙げられる。しかし、昨今は一般化できないほど社会の複雑性が増してしまっており、精度の追いつかない一般理論が見捨てられる状況となっている。

本書を通じて、一般理論ではないが、個別具体的に解決する手段は提示されている。それは「近接性」である。敗戦や戦後復興のような国民的共通前提が消えれば、1億人以上の他人を「仲間」だと思い続けるのは無理だ。ルソーが「社会契約論」で示した民主政の条件は、決定が全成員の各々に何を意味するのかを皆が理解でき、それが気に掛かること。2万人が上限だった。宮台は本書で示す通り「住民投票」を通じたワークショップに解決の糸口を見出している。顔の見えない全員を救うことは出来ないが、顔の見える家族や友達が幸せに生きていける社会を実現したいと思えるか。そう思うことが出来たら自治体や小さなグループでも良い。ただ任せて文句を垂れる存在から引き受ける存在へ。個人の実存の問題から、社会貢献へ。意識を向けることによって「社会という荒野を仲間と生きる」ことが重要である。

アイロニズムが常態である後期近代で―終わりなき再帰性が〈生活世界〉を含めて不動の地面を全てスポイルした後期近代で―アイロニズムや終わりなき再帰性に徹底的に棹さしつつ、砕け散った瓦礫の海に浮かび上がる星座を「信頼」して「承認」を求めて前に進む。そんな作法に耐え得る者は、実際には極く僅かです。これを「耐え得る者は誰か」問題と呼びましょう。

宮台真司『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫 p.262

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