見出し画像

初授業が失敗終わったので考えたこと。

やっと学校が始まり、休み時間には生徒の賑やかな声がこだましいた。懐かしい気持ちと憧れた舞台にようやく立てる高揚感が、生徒と関わりたい気持ちを加速させた。
自分の授業をするのが、めちゃめちゃ楽しみだった!
でも、フタを開けてみると大失敗…

公式の導出過程を1つがどうしても板書できなかった。何も難しいことではない。板書用のノートも作った。それを書けばいいだけだ。

しかし、ノートのレイアウトがよくなかったため、その部分が目に入ってこなかった。

見失った式がないと、前後の2つの式の因果関係が成り立たない。焦ってしまった。パニックだった。頭の中が真っ白になるとはこういうことなのだと知った。
その後、フリーズ状態で少しの間黙り、時間ギリギリでなんとか公式を導出した。
相当やっちまっている。実習生でもそんなことしない笑笑

そのほかでも、自分が喋りすぎてしまったこと、生徒の顔と名前が全く一致してなかったため、一方的な授業になってしまったことなどもやばい点だ。

彼らには、『無能』の烙印を押されたに違いない。第一印象が何よりも大事なのに、自ら茨の道を歩むことを決めてしまった。

あーあ。と、こんな感じで落ち込んでいたが、今日変化があった。

違うクラスの授業だが、
昨日の教訓から、まず喋りすぎないこと、生徒の顔を写真で覚えてから授業に行くこと、授業アンケートを作ってフィードバックをもらうこと、などの対策をとった。

すると、そのアンケートには期待の言葉が多くあった。泣いた。笑

そして、原点を思い出した。

今までは、生徒に好かれよう、すごい上手い授業をしよう、他の先生に評価されるように行動しようというふうな行動を取っていた。

でも、それは間違ってはいないけど、それほど重要ではなくて、もっとも大事なことは『生徒のために』行動することだ。生徒一人一人のニーズはもちろん違っていて、学校の方針に全員ハマることなんかない。無理やり押し込むことの恐ろしさたるや。
僕も無意識に、自分の授業の型に生徒をはめてしまおうと思っていた。
しかし、もっと生徒に寄り添った授業づくりが必要だ。

生徒たちは素直で正直でときに残酷だ。
でも、生徒たちがどう変わっていくかは僕にはどうにもできない。僕が彼らを強制的に変化させることはできない。
唯一できることは、自分が変わることで、彼らの変化を見守ることだ。

ふと『嫌われる勇気』を思い出した。
そして、僕がどんなときざ1番嬉しいのかも思い出した。それは、「生徒のために何かできた」ときだ。今日の授業のあと、『先生の話し長いけどためになった』とか『もっと〇〇について知りたいから今度質問行きますね』とか、声をかけてくれる生徒がいて、嬉しかった。とてつもなく嬉しかった、

全員の生徒に嫌われるまではこの仕事を続けられる。
死なない程度に尽力させてもらう。
来週はリベンジするぞ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?