【大河ドラマ連動企画 第40話】どうする吉晴(堀尾吉晴)

冒頭の五大老顔見せシーンを「物騒な乙女ゲーのOP」と評しているネットのコメントを見て、不覚にも笑ってしまった。一癖も二癖もある戦国の猛者(+秀吉の薫陶を受けた若き当主)、誰を攻略対象にしたとしてもストーリーが重そうである。
閑話休題。天下泰平という大目標達成のため清濁併せ呑む家康と、秀吉のご遺言の執行という小目標達成に拘泥する三成は遂に決裂。家康も「手段を選ばず天下泰平の舵取りを行う」決意をする。奇しくも執権殿と同じ「修羅の道」を選んだ彼。「お供します」と言うのは参謀・正信…ではなくバリバリの武闘派・忠勝である。偽本多は「何を今更」と後ろで鼻ほじってそうである。そもそも昨年の大江広元はこの二人を足したような人外だったわけだが。

さて、今回少し気になったのが家康の元を訪れた詰問使のシーン。これまでの大河ドラマではいわゆる三中老がセットで描かれることが多かったように思うが、今年は一人のみ(後ろに2人くっついていたが明らかに添え物扱い)。さて、ではこの一人は誰なのか。そもそも通説では三中老(堀尾吉晴・中村一氏・生駒親正)が詰問使とされているが、一次史料において明確に彼らが詰問使と報告されたものはないとも言われ、近年は「三中老」の存在そのものが疑問視されている。この3人の中で特に言及されることが多いのが堀尾吉晴である。彼自身は家康と他の大老・奉行との調整に奔走し、その結果として加増を受けた、などの記録もある。故に今回、取り上げられていた人物は堀尾吉晴と比定して話を進めることにする(有識者の方、違っておりましたらコメントお寄せください)。

信長・秀吉に仕えた名将

堀尾吉晴は尾張の土豪・堀尾氏の生まれである。かつては岩倉織田家に仕えた重臣の家系であった堀尾氏だが、織田信長により主家が滅亡すると一旦浪人となり、その後信長に仕官。吉晴は稲葉山城の戦いで城への裏道を案内した逸話が知られるが、秀吉の寄騎として各地を転戦。備中高松城では清水宗治の検死役を務めたと言われる。その直後の山崎の戦いでは天王山攻防時に敵将を討ち取る活躍を見せ、賤ヶ岳の戦いでは大垣城主・氏家直昌を説得して調略するなど秀吉政権下でも大いに活躍した。その功績から若狭や近江を領有する大名となった後、家康の関東入部時に浜松城主となる。東海道に配置された秀吉恩顧の武将の中でも家康の隠居所・駿府を領有した中村一氏と並ぶ破格の対応であり、対関東における重要な拠点を任せることができる武将として信任が厚かったと言える。
しかし、秀吉の死後は前述の通り、親家康派の一人として大老・奉行衆と家康の間の調整・周旋を担当した。翌年には隠居したが家康から越前府中に隠居料を賜っている。

関ケ原の戦い直前の惨劇

関ケ原の戦いの直前に行われた上杉征伐に際しては嫡男・忠氏を従軍。家康が浜松まで訪れた際には忠氏共々家康を歓迎したという。この際に自らも従軍を申し出たというが、流石に忠氏のみでよいと丁重に断られる。
その帰路で吉晴はとんでもない事件に巻き込まれてしまう。三河・池鯉鮒において、吉晴は同じく息子の勝成を当軍に従軍させた刈谷城主・水野忠重と宴会となる。ここに同席していたのは美濃加賀井城主・加賀井重望である。なぜ彼がここに居たのか、正確なところは不明である。一説には石田三成の密命を受け、家康周辺の諜報および要人暗殺の密命を帯びていた、とも言うが『徳川実紀』にのみ記された情報であり、真偽は定かでない。ともあれ、宴会の最中、ふとしたことから水野忠重と加賀井重望が口論となり、刃傷事件に発展(ちなみに忠重の異母兄は信元である、と言われるとなんか口論になりそう、と思ってしまうのは本作のバイアスだろう)。忠重は重望により殺害されるが、可哀想なのは巻き込まれた吉晴である。重望は吉晴も襲撃。吉晴は全身17箇所を負傷する重傷を負うが、なんとかこれを返り討ちにし、重望はここで死亡する。直後に駆けつけた水野家家臣が見たのは大乱闘の後に斃れている主君と、その酒宴に参加していた武将、そして武器を手に傷だらけの吉晴である。状況からなんと吉晴は両者の殺害犯と間違われてしまう。吉晴は命からがら脱出したと伝わるが、その報が徳川家康まで伝わってしまった。忠氏共々謀反を疑われるというとんでもない事態に巻き込まれてしまい、まさしく災難である(この後無事に誤報と伝わった)。

松江城を創建

負傷してさすがに関ケ原本戦にも参加できなかった吉晴だったが、越前から北近江・北陸地域の情報を東軍に連絡し貢献。息子の忠氏も戦で武功を立て、その成果を評され出雲24万石に加増される。当時の本拠は月山富田城であったが近世城郭および城下町形成のため、本拠を移すことにした。しかし、1604年、忠氏は急逝。嫡孫の忠晴はまだ幼く、やむなく吉晴は悲しみを抑え松江城の築城を行う。そして1611年、現在に国宝として残る松江城が完成。その落成を見届け、吉晴はこの世を去った。

彼の死後忠晴が政務を執るが、寛永10年に死去。嗣子なく、大名としての堀尾氏はここに断絶・改易となる。子孫は他所で命脈をつなぐことになる。

その才覚で信長・秀吉・家康に仕え、国宝として今なお残る名城を築いた堀尾吉晴。彼もまた、時代に問われながら「どうする」を乗り越えた名将である。

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