【大河ドラマ連動企画 第36話】どうする◯◯(西郷家の人々)

家康の臣従から北条征伐までの間の空白期間は家康にとっては大きな事件がないとはいえ、残り話数も厳しいのにまた側室回である。ただ、今作では家康の周囲の人物を1人ずつ丁寧に退場させている。『鎌倉殿の13人』や『西郷どん』でもそうだったが、一夫一妻制の世界観の中で、側室や後妻の存在についてはデリケートに扱うべきだというNHKの判断だろうか(渋沢栄一から目をそらしつつ)。
そして最後にとんでもないラスボスキャストの登場である。まあネットでも散々騒がれていたし、OPで分かってたけどね。

今回はお愛、あるいは西郷局の波乱の人生から彼女を取り巻いた人々について扱っていく。

戸塚忠春

西郷局は天文21(1552)年、戸塚忠春の娘として生まれる。妻は東三河の領主・西郷正勝の娘とされるが、他のブログでもこの関係を疑問視するものがったので一応言及する。忠春は遠江の西郷(石谷)政清の配下として活躍する「西郷十八士」の一人である。家格としては西郷正勝より一段劣る上、三河と遠江で国も異なる。同じ「西郷」の名前が関係しているが遠縁でもない。なぜこのような婚姻が成立したのかは謎が残るが、おそらく今川氏の仲介があったと考えられている。天文23(1554)年、「大森の戦い」において戸塚忠春は戦死。西郷局の母親は蓑(服部)正尚に再嫁したとされている。

しかし、この説には疑問が残る(一度言ってみたかった)。
西郷局の母が服部氏に繋がることや後述する西郷正勝の養子になったという説は18世紀に成立したと考えられている。その根拠となるのが、西郷局の従姉妹に当たる人物が記した「お国文書」において戸塚忠春が存命し、西郷局の婚姻に伴い屋敷・領地を与えられ、その後累代に継承したという記述が存在していることだ。こちらが記述されたのが寛文3(1663)年であり、17世紀までの記録には上述の逸話は出てこないことが根拠となるようだ(中山、2016)。

また、戸塚忠春の嫡男・忠家(西郷局の兄)も西郷局が幼少時に戦死し、戸塚家は断絶した、と伝わっているがこちらも異伝があり、文禄3(1595)年に死去したとある。その子が戸塚忠之であり、石谷政信(政清の子)の娘と結婚している。

西郷義勝

その後、西郷局は祖父の西郷正勝に母親共々保護され、正勝の孫(西郷局から見て従兄弟に当たる)の西郷義勝に嫁ぐことになる。この西郷義勝もなかなか苦難の人生を辿っている。時系列を整理するが、西郷局が母と共に正勝に保護されたのが父の戦死後すぐと仮定すると天文23年(1554)年。その6年後、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、西郷氏は松平元康(以後はややこしいので徳川家康)に臣従する。これに対し、翌永禄4(1561)年、今川氏真の家臣・朝比奈泰長が西郷氏の本拠を襲撃。正勝とその嫡子・元正は衆寡敵せず討死。この時、元正の遺児だったのが義勝である。領地はすぐに元正の弟(義勝の叔父)である清員が奪還したため、当初・家督は清員に譲られそうになった。しかし、清員はこの時代には珍しく義理堅い男だったようで家康に申し出て家督は義勝が継ぐこととなった。こうした状況で義勝は清員の補佐を受けながら対今川、対武田の最前線として活躍していた。しかし、元亀2(1571)年、秋山虎繁が東三河に侵攻。義勝は野田菅沼定盈や設楽貞通らと協力しこれを撃退する(竹広表の戦い)が、この際に戦死してしまった。これにより、西郷局は未亡人となってしまう。
ちなみにこの時義勝の嫡男・勝忠はわずか1歳。清員は今回も彼に家督を継がせようとしたようだが、家康の采配により、清員の嫡子・家員が西郷家の家督を継ぐ。勝忠はその後、紀州藩に仕えたとされる。

西郷家員はその後、徳川家康に仕える。長男は近藤秀用の養子となり、次男・忠員が跡を継ぐが、忠員、三男・康員と子がなく、四男の正員が跡を継いだ。その後、西郷家は一時大名となるが領地を半減し、旗本として幕末まで続く。また、清員の兄弟たちは徳川・松平家に仕え、幕末の会津藩の家老・西郷頼母は子孫である。

偽りの笑顔、偽りの愛から始まった西郷局、お愛の人生はいつしか偽りから生まれた真に彩られ、心からの笑顔で幕を下ろした。
彼女の周りの人々も懸命に生き抜いた。そこに真の笑顔があったことを願ってやまない。

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