【大河ドラマ連動企画 第19話】どうする定盈(菅沼定盈)

トンチキ回かと思えばしっかり重要な伏線が散りばめられていた回であった。日曜日20時とは思えない色気を醸し出す松井玲奈、初めてマジギレする有村架純。個人的には「三方ヶ原の戦いの俗説」を完璧に処理してみせた柴田理恵がMVPである。

さて、今回はネタ切れなので三方ヶ原の戦いに関連する武将を扱っていく。
2回ほど前に「山家三方衆」を寝返らせ山県昌景らが三河に侵攻したのは覚えているだろうか。この山家三方衆とはドラマで重要な役割を果たす(と思われる)奥平家と2つの菅沼家である。そして彼らと対立した菅沼定盈が今回の主人公である。彼を主人公にした宮城谷昌光氏の「風は山河より」という小説もあるが、マイナー武将なので知らなくても安心していただきたい。

菅沼氏は土岐氏の支流を称した説があるが、出自は諸説ありはっきりしない。何れにせよ、室町期に美濃国から流れ着いた菅沼定直をその祖とする説が一般的である。土着した菅沼氏は松平氏のように多くの分家を創始する。

長篠菅沼氏:定直の次男・満成を祖とする。
都田菅沼氏:長篠菅沼満成の嫡男・元成の次男・俊弘を祖とする。3代目忠久は井伊谷三人衆の一角を担う。
島田菅沼氏:定直の嫡男・定成の長男・貞行を祖とする。宗家とする説がある。
田峯菅沼氏:定成の次男・定信を祖とする。一般的に宗家とされる。
野田菅沼氏:田峯菅沼定信の孫・定成の子・定則を祖とする。


菅沼氏の系図と各分家

菅沼定盈はこの内、野田菅沼氏の3代目当主である。1542年に生まれた定盈は14歳で父・定村の戦死に伴い家督を相続する。桶狭間の戦い以降は徳川家康に帰属するが、今川氏の攻撃を受け野田城を一時奪われるなど苦労を重ねていた。

そんな中で武田氏の圧迫が次第に強くなってくると、菅沼一族は武田氏への離反を模索し始める。元亀元(1570)年の上村合戦において、東濃の遠山氏が武田氏に鎧袖一触に破られるのを見た田峯菅沼定忠と長篠菅沼正貞は奥平氏と共に一戦も交えず撤退してしまう。あるいはすでにこの時にはこの3家は武田氏に内通していたとも伝わっている。

元亀四(1573)年、ついに武田信玄は大軍を引き連れ徳川領内に侵攻する。この時、山県昌景・秋山虎繁らの別働隊が美濃を経由し奥三河へ侵攻すると田峯菅沼氏・長篠菅沼氏・島田菅沼氏はこれに同調する。都田菅沼氏は井伊谷三人衆として対立するも敗北、降伏。野田菅沼氏のみが武田氏と単独で対立することになる。三方ヶ原の戦いで徳川軍が大敗すると野田城は孤立。定盈は1ヶ月にわたり籠城するが多勢に無勢。遂に宗家・田峯菅沼氏からの説得を受け開城。しかし武田氏への忠誠は誓わなかったため人質となる。
しかし、程なく信玄の体調が悪化。武田軍は撤退を開始する。その後、定盈は人質交換の結果無事に野田に戻ることができた。その後も徳川家のために戦い、長篠の戦いの前哨戦となる鳶ヶ巣砦の戦いでは家臣とともに大いに活躍したという。その後も徳川家において忠臣として名を上げ、関東移封時には1万石の大名となる。子は伊勢長島2万石に加増。そして、支流であった野田菅沼氏は江戸時代に菅沼氏の中で最大の繁栄を誇るようになる。

一方で、山家三方衆に数えられた田峯・長篠の両家は悲惨な末路をたどる。
田峯菅沼定忠は長篠の戦いで敗戦後勝頼と共に田峯城に戻るが留守居の家臣が翻意し入場を拒否。這々の体で甲斐に落ち延びた定忠は翌年、恨みを晴らすかのように田峯城を襲撃。一族を皆殺しにする凶行に走る。その後、徳川勢と戦って戦死したとも、武田滅亡に際し河尻秀隆に降伏するも入れられず処刑されたとも言われる。長篠菅沼正貞は武田軍撤退後に長篠城を包囲され、武田の援軍の到着前に降伏、甲斐に撤退するが内通疑惑を持たれてしまい、幽閉。そのまま獄中死してしまう。

田峯・長篠家の決断は結果的に誤りとなったが、愚かな選択ではなかった。しかし、一つの決断が家の興亡を分ける結果となることはこの例でもよく分かる。特に大国に挟まれた小領主にとって、その「どうする」は大きな意味を持つのである。

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