【大河ドラマ連動企画 第18話】どうする汎秀(平手汎秀)

いじるところが無いとつまらない…もとい、作品としての出来が素晴らしいの一言に尽きるわけである。これ以上は書かない。この回の感想は言葉を重ねれば重ねるほど、野暮というものである。
次回はまたトンチキ回だよ!

今回は三方ヶ原の戦いで勇敢に戦った人物を紹介していく。平手汎秀、である。
歴史好きなら名字でわかるかもしれないが、彼は徳川家の家臣ではなく、織田家の家臣である。今回はさっさと撤収して露骨に死亡フラグを立てやる気ゼロマン佐久間信盛&チンピラ伯父さん水野信元と異なり(注:史実では信盛は即撤退しているが信元は浜松城を防衛してくれている、サンキュー伯父貴)、汎秀は三方ヶ原の戦いで戦死してしまう。まだ若い彼がいかにその決断に至ったのか。

平手氏の出自ははっきりしないが、尾張国の豪族に関連した一族として土着していたと思われる。特に有名な人物が「平手政秀」である。織田信秀の重臣として外交方面を中心に活躍、嫡子・信長の傅役となったことでも知られる。しかし、信秀の死後に自刃。信長の不行状を諫めるためとも、信長と不和になったためとも伝わる。ただし、信長にとって重要な人物であったことは間違いないようであり政秀の死を受けてすぐにその菩提を弔うべく、沢彦宗恩和尚を開山とする「政秀寺」を建立する。

その政秀の孫に当たるのが、汎秀である。太田牛一の『信長公記』においては政秀の三男と記録されていることが多いが、彼の生年が政秀の没年に当たること(この時享年62)、他の系図類にはそのような記載が無いことから現在では孫であるとの認識が一般的である。彼の名が記録に初めて登場するのは1570年(元亀元年)の石山本願寺攻めで砦の一部を守護したとある。その後も各地を転戦し、三方ヶ原の戦いでは織田氏からの援軍として派遣されている。他のメンバーが宿老・佐久間信盛、林秀貞、家康の血縁・水野信元と言うことを考えると、経験を積ませる目的ももちろんあるだろうが戦力として一定の期待をされていると考えて差し支えないだろう。後に記載する逸話にもある通り、勇猛さについては広く知られていたとのことであり織田氏の若手武将として、宿老の血縁として将来を期待される存在であったことは想像に難くない。
しかし、三方ヶ原の戦いにおいて他の織田軍と異なり真面目に戦場で戦った結果、慣れない遠江での撤退に苦戦した汎秀は戦死してしまう。前田家に伝わる文書『陳善録』では「家康の挨拶回りが後回しになったことに腹を立て挨拶を拒否、本戦でも家康の制止を聞かずに突撃して戦死」と散々な書かれようである。ただし、この文書の著者とされる村井重頼は前田利家の家臣であった村井長頼の子であり、1582年生まれであり伝聞の内容が多いと思われる。
他の織田家宿老メンバーが武田信玄との直接対決に見切りをつけ早々に撤退した中で忠実に信長の援軍命令を遂行した結果の戦死と考えて差し支えなかろう。その死に対し信玄は丁重に弔った上で信長に返送したとも伝わる。
翌年には平手汎秀の父も長島一向一揆で戦死。平手氏嫡流は断絶してしまう。
この若き将の死は信長にとってやはり非常な衝撃をもって迎えられたようであり、この時共に出陣したと伝わる三人はいずれも後に粛清されている(厳密に述べるならば水野は武田氏への内通を理由に誅殺、林・佐久間は追放)。佐久間信盛に当てた書状では(主たる理由では無いと思われるが)三方ヶ原の戦いの際に秀貞・信元と共に汎秀を見捨てて撤退したことを追放の罪状に上げている。

かくして若くして戦場に散った平手汎秀であるが、彼について不思議な信仰が最近まで浜松で続いていたという。一説には平手汎秀は喘息の持病を持っていた。三方ヶ原の戦いで敗走し、身を隠しながら逃げていたが喘息の発作で咳をしたために武田の兵に見つかり、戦死することになる。その時、「自分は武運拙くここで死ぬが、以後はこの地で喘息・咳の病に苦しむものを救ってやろう」と言い残す。これによりいつしか「ひらてんさま」と呼ばれ、平手神社は喘息・風邪にご利益のある神様として地元の人に愛される存在となる。この逸話自体は宮田登の定義する『生き神信仰』における「救済志向型」信仰の類型であり全国によく見られる形態ではあるが、浜松の民が窮地に駆けつけ異国で命を落とした若武者に畏敬の念を感じていた証として非常に興味深い。残念ながらこの信仰は次第に衰退し平手神社は2006年に老朽化に伴い解体、再建されることはなかったが、平手氏の血縁によりその墓碑と家臣の碑は平手氏の菩提寺に移され、丁重に弔われている。

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