【大河ドラマ連動企画 第28話】どうする秀隆(河尻秀隆)

※後追いで追加中

冒頭で致命傷を負う信長。すでに寝所に鎧武者が入り込むってどんな状況だよ、というツッコミよりも「まぁそうでもしないと信長園長倒せないもんな…」と納得してしまった自分。自分の中では岡田准一、和製スティーブン・セガールとか和製ジェイソン・ステイサムみたいな扱いである。
徐々にかつての野生時代の赤装束(に見立てた血まみれの寝間着)に戻っていく信長。光秀に心底失望し、覚悟も度量も足りない光秀にマジギレする姿には最期まで乱世の覇王としての風格が漂っていた。一方で自分の未熟さを理解し、そして信長の業を背負う家康の成長。ラストシーンの「さらば狼…ありがとう我が友」には涙がこぼれそうになった。

というわけで、今回も本能寺の変によって人生を狂わされた、というより終焉を迎えてしまった人物を紹介する。河尻秀隆である。
織田家臣団の中でも比較的マイナーな人物であるが、最終的には甲斐国主まで上り詰めており、確かな実力を持った人物である。

河尻氏は肥後国地頭に由来する醍醐源氏の末裔と清和源氏頼親流石川氏の末裔を称するものがあるが、尾張における河尻氏がどちらの名跡なのかは明らかではない。また、河尻秀隆についても美濃国出身という説と、尾張岩崎村出身という説の2つがありはっきりしない。大永7(1527)年に生まれ、はじめ織田大和守(いわゆる清須織田家)に仕えたが、早い段階からその家老である織田弾正忠家信秀の家臣になったと伝わる。1542年の第1次小豆坂の戦いにおいて16歳で初陣を果たし、敵の足軽大将を討ち取る武功を立てたというからかなり優秀であったのは間違いない。信秀の死後は信長に仕え、黒母衣衆筆頭として知られる(黒母衣衆の筆頭は佐々成政では?と思ったが、wikipedeiaだけ見ても両方に記載があり矛盾しているので深く考えないことにする)。この頃に織田大和守の家臣だった河尻与一郎重俊の跡を継いだ、という記録もありその場合清須織田家を経由せず直接信秀の家臣となっていた可能性もあるだろう。
織田信勝の殺害にも関わり、桶狭間の戦いにも従軍。美濃攻めでは犬山城の対岸にあった猿啄城および中濃地域の拠点攻略に尽力。戦功として猿啄城主を拝命している。元亀元年には武田信玄との手切れに伴い、東濃・岩村城を制圧。以降、織田信忠の補佐役となり、対武田戦線を担当する。岩村城は遠山氏との抗争の末、秋山虎繁の支配下にあったが天正3(1575)年、遂にこれを攻略。秋山虎繁は処刑され、河尻秀隆は岩村城主となった。その後、岩村城下の開発を進めつつ、武田に備え、いよいよ天正10(1582)年の甲州征伐を迎える。前回取り扱った滝川一益と共に織田信忠の軍監としてその動きを統率しつつ侵攻、最期には武田勝頼の軍を追跡し討ち取る功を立てている。その功績から甲斐国主に任じられている。かつての大名の本拠地を与えられており、秀隆への信頼が見て取れる。
このまま信長が天下を統一していれば、彼もまた功臣として名を残し、甲州で名君と讃えられていたのかもしれない。しかし、時代の荒波が彼に悲劇をもたらすことになる。本能寺の変が勃発し、主君・信長が横死。彼が仕えた嫡男・信忠も同時に討ち取られてしまう。主家の混乱により、新領主が着任して僅か2ヶ月の甲信地域は混乱のるつぼとなる。滝川一益と共に領地に残る選択をした秀隆だったが、彼が対処すべきは一揆を企む武田遺臣のみではなかった。その背後には武田領の併呑を目論む徳川家康がいたのである。
徳川家康は秀隆の元に本多忠政(信俊)を派遣。忠政は秀隆に上方への帰還を勧めたとされるが、この裏で別将が甲斐領内に安堵状の発給を進めるなど実効支配への準備を進めていることを察知していた秀隆はこれを拒否。忠政を斬殺する。しかし、これにより怒った忠政家臣は武田遺臣と結託し秀隆を襲撃。秀隆はここで落命する事となる。享年56。
その後、甲斐は徳川家康の領有する事となる。
前回の一益に続き、地味ながら織田家の天下統一を支えた功臣だった河尻秀隆。しかし、突然の変事に対応しきれず命を落とすことになってしまった。戦国の世を生き抜く難しさを、今回も痛感させられた。


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