【大河ドラマ連動企画 第1~3話】どうする○○

2023年大河ドラマ「どうする家康」が放送を開始した。松本潤が主人公のヘタレ徳川家康を好演し、NHK発表によると世界トレンド1位らしい。なにそれすごい。
だがしかし、あくまで個人的な感想であるが、Twitterの界隈ではイマイチ盛り上がりにかける印象である。昨年の作品と比べてしまうのは心苦しいが、「鎌倉殿の13人」ではフォロワーも大いに盛り上がったし、私も楽しく見ることができた。その際に新たにフォローした方もいる。しかし、そう言った方々の呟きも心なしか少ない気がする。ということで、大河ドラマを楽しく見るためのお手伝いをしたいと考えている。今年の脚本のどこがだめ、とか演出のどこがだめ、とか言いたいことが無いわけでは無いが、3話の時点で講釈を垂れるのも素人としてお門違いだろうし、どうせどこかの誰かが散々やっているだろう。
そこで、今回考えているのは「誰やねん、それ」というマイナー武将を1話1人ずつ取り上げて紹介していこうという企画である。毎話必ず出てくるわけでも無いと思うので、その場合は徳川家臣団のメンバーのメジャーではない人々を紹介しても良いかもしれない。というか、鳥居忠吉とか夏目広次とかがすでにマイナー武将である。
ちなみに、このマイナー武将、という表現は各武将のファンに対して失礼なことは重々承知であり、自分自身の不勉強がゆえの表現なのをご容赦いただきたい。今回、wikiレベルのしょぼい出典でも自分なりに少し勉強しようと思うので許していただきたい。
というか、こっちの方が問題発言だと思うが、筆者は徳川家康が個人的に嫌いである。(じゃあなんで大河ドラマ見てるんだよ…)

第1話「どうする長照」 鵜殿長照

鵜殿長照(うどの・ながてる)と言えば、信長の野望前半の大勢力今川家の中でも能力的には地味だけどなんか名字珍しいな、ぐらいのテンションで覚えておくくらいのマイナー武将である(失礼)。
父・鵜殿長持(ながもち)の跡を継いで三河上ノ郷城一帯を支配していたという。地理的には松平家の本貫である岡崎の東側で非常に近い。作中では大高城で死にそうになっていて家康にめちゃくちゃ感謝している。今川義元の妹の子であり、今川家の中でもかなり高い立場にあったと思われ、大高城という対織田最前線を長きに渡って担当していたようだ。桶狭間の戦い時点では史実でもドラマの通り厳しい状態にあったようで、家康の兵糧運び込みによって大高城の守備の任から外されている。しかし直後に今川義元が戦死。やむなく本領に撤退している。その後は今川方にとどまり、松平氏の一族と対立したがwikipediaに引用された史料ではその後はさんざんである。曰く、「不行儀」であったために家臣や近隣領主の離反を招いた。曰く、夜襲を試みるも、敵方の兵が徹夜で賭博をしていたため、「夜襲を見破られた」と勘違いし撤退した。約2年にわたって善戦するもののついに家康自ら率いる軍に本城を襲撃され落城。長照は戦死、子2人は人質となり、駿府に人質となっていた家康の家族と交換で今川家に戻るが、没落後、徳川(松平)氏に臣従する事となった。ちなみに新選組の設立の話を深く掘った時に一瞬出てくる鵜殿鳩翁(うどの・きゅうおう)は彼の又甥の家系である。

本編では一切触れられていない(し、触れる必要も特段ない)が、鵜殿長持の娘が松平伊忠の妻となっており、家康と長照は遠縁の親戚と言えないこともない。まぁ、後述の通り分家と言っても敵になることはあるのだが。

第2話「どうする昌久」 松平昌久

正直知らんかった(おい)。松平家には分家が多く、通称「十四松平」や「十八松平」とも呼ばれる。徳川家はその中の一つ「安祥松平家」の末裔である。松平昌久は大草松平家の第4代に当たる。元々は岡崎城を領有していたそうだが、昌久の父の代に松平清康(家康の祖父)に敗れ、岡崎城を失っている。その後は和睦し、安祥松平家に仕えることになる。清康、広忠は相次いで暗殺され、家康は駿府に人質として留め置かれるという状況下にあっても特にイニシアチブを取った、という描写もないが松平宗家としての立場を巡る確執はあった可能性がある。桶狭間の戦いでは孫の正親が戦死している。この時、『寛政重修諸家譜』(18世紀末に編纂された大名の家系図)によると孫の年齢が48歳であったとされており、単純計算でも昌久は80歳後半と推測される。孫が戦死する混乱の中で安祥松平家に叛旗を翻す理由は積極的にはないと思われる。そもそも大高城に入城し直接的な戦闘に参与しなかった安祥松平家の軍は戦力を保っており、敗残兵のような格好で敗走することはなく撤退行動として岡崎まで退去しているはずである。つまり、あの時点で兵力を持っているのは昌久ではなく間違いなく家康なのである。演出とは言え、いくらなんでも安祥松平氏の家臣団をナメ過ぎである。その後、昌久は1563年の三河一向一揆に際して反家康の立場を取り対立。吉良義昭(後述)と共に城に立てこもるも落城。その後行方知れずとなったとされる。いや90歳近くにまだ徘徊してたらバケモノでしょ。さすがに戦死か、何処かで野垂れ死んだものと思われる…。いやまさかね?

第3話「どうする義昭」 吉良義昭

この方は何の因果か少し前に名前を見ることはあった。そもそも、吉良氏は今川氏の親戚に当たる、というか今川氏が吉良氏の分家である。吉良氏は足利氏の分家の中でも高い地位に置かれ、「足利が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と呼ばれている。もっとも、足利氏も分家が増えており、その分家がすべて壊滅するとは考えにくいのであくまで名族アピールのためのフレーズでしかないのだが。
話を戻し、吉良義昭であるが、今川氏に一貫して忠誠を尽くし、兄との家督争いの末、南北朝時代から分裂していた東条・西条の両吉良氏を再統一した人物である。その後は家康と協力して織田氏と戦ってフルボッコにされた…という記録は一切なく、松平氏と対立したとの記録のみである。一度は計略を用いて深溝松平好景を討ち取るなど善戦したが最後には降伏したと伝わる。こっちの義昭はたいそう有能だったようだ。
しかし、2年後の三河一向一揆で再び家康と対立、昌久と共に東条城に立てこもるも落城、以後は摂津で死去したと伝わる。
人が良さそうで家康に攻め込まれて呆然とする、などというヤワな男ではなかっただろうことは確かである。
ちなみにこの人の子孫に「吉良上野介」こと吉良義央がいる。

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