【大河ドラマ連動企画 第9話】どうする義広(荒川義広)

さて、意外とあっさり(それでも3回かかった)三河一向一揆が決着した。空誓上人とこれからの三河統治のあり方などしっかり議論するのか、や家康の成長を描くのか…などの思いや吉良に全部おっかぶせるのでは?などの予想を全部ぶっちぎり、「信長の命令で和睦」という斜め下の結果に。キョロ充ヤクザ水野信元が仲介してくれたのは史実とは言え、主体性もへったくれもない結末である。でも内輪もめしてたら国が荒廃するのは事実なので、信元の指摘は正論and正論ではある。ある意味ここで手打ちにしたことで、徹底的に潰してヘイトを買う真似をせずにすんだ、とも言えなくもない。かくして解決した一向一揆だが、国外追放した弥八郎はどの面下げてもどってくるのだろうか…。すべてもとにもどーす!
そしてラストにぶっこまれる千代の出自。大方の予想通り、望月千代女だったようだ。スタッフに忍者オタクがいるのだろうか。これは武田忍軍や伊賀忍軍、風魔も飛び交う家康忍法帖は確定路線と思われる

さて、今回は一向一揆シリーズ最終回、同時に蜂起した武将のラスト、荒川義広(名前だけの出演)を取り扱っていく。

荒川義広と名乗っているが、父親は吉良持清であり、三河吉良氏の一族である。だが、下図で示す通り、義昭とは遠縁も遠縁、実質別家である。1561年(永禄4年)の松平元康による吉良義昭攻めの時には家康に協力して攻めている。なぜこんなことになったのか。吉良氏の歴史を紐解いていこう。

吉良三河氏と今川氏、黄色が荒川義広、緑が今回関係する人物

吉良氏は足利氏の分家として成立しており、三河吉良荘が名字の由来である。足利義氏の子・長氏が吉良荘の地頭をつとめたことに始まる。吉良荘には矢作川が流れ、領地が大きく2つに分かれていた。そのため、それぞれを東条、西条と呼んでいた。長氏は主に西条の西尾に拠点を構え、弟の義継が東条に拠点を構えていた(※義継は後に奥州に拠点を移し、奥州吉良氏となるが、この経歴から東条吉良氏と呼ばれることもある。ただし、東条吉良氏は後にも出るため、区別するために前期東条吉良家と呼ぶことが多い)。また、長氏の次男が今川氏の祖となる。

鎌倉時代は三河における足利分家の元締めとして活躍。鎌倉末期に吉良貞義が足利尊氏をそそのかし、六波羅探題攻めを決断させたという逸話が伝わるが、史実とは言えないらしい。いくらなんでも盛り過ぎである。鎌倉幕府滅亡後、吉良氏は一転して足利尊氏と対立し、貞義の子・満義、満義の嫡男・満貞は観応の擾乱(ざっくり話すと足利尊氏と直義の間の日本一大きな兄弟喧嘩)で直義派に属し、その後の南北朝時代では南朝として戦う。徹底的な逆張りの末、室町幕府に帰属した吉良満貞を待っていたのは領地の被官(部下)に担ぎ上げられた弟・尊義だった。満義と満貞が転戦している間に、室町幕府側につくべく尊義が祭り上げられ、東条を中心に勢力をつけていたのである。戻ってきた満義・満貞は西条のみに支配領域が限定されることになる。この嫡男・満貞の系統が西条吉良家、四男・尊義の系統が東条吉良家と呼ばれることになる。もっとも、歴史書では嫡流である西条吉良家が単純に「吉良どの」と呼称されるのに対し、東条吉良家は「東条どの」と記録されている。この両家は長らく吉良本家の正当性を巡って争うことになり、応仁の乱では西条吉良義真が東軍、東条吉良義藤が西軍について戦ったという。そこは逆であれ。東条・西条吉良家の対立についてのこの因縁は『今川記』にしかない話ではあるものの、先に挙げた十八松平家や応仁の乱における各分家の争いを見れば、これくらいの対立は当たり前だったと見るべきであろう。
こうした対立は東条吉良持広(荒川義広の兄)が養子として西条吉良義安(吉良義昭の兄)を迎えたことで表面上は解決する。しかし、この問題は根深く残っており、この後大きく炎上することになる。西条吉良家当主・義郷(義安、義昭の兄)が織田信秀との戦争で戦死。西条吉良家当主の座が空位となる。西条吉良家当主は義昭のものとなるが、この時、東条吉良家当主となった義安が西条吉良家の当主の座も望み、西条吉良家重臣と対立することになった。結果的にこの訴えは棄却され、それを恨んだ義安は西条吉良家の支援をしていた今川氏とも対立していく。1549(天文18年)、今川氏による織田信広(信長の兄)攻めの際、義安は織田方につき、今川軍に捕らえられ、駿府へと送られる(※ちなみにこの時、織田信広も捕らえられ、人質交換で織田家に強奪された竹千代(家康)を返還してもらっている。)。一度は許されたとも言われる義安だったが、1555年(弘治元年)、再び今川氏に反抗する。この時には三河全体で反今川氏の内乱が相次ぎ、三河忩劇(みかわそうげき)とも呼ばれる。1557年(弘治3年)に敗北した義安は三河を追放、義昭が今川義元から命じられ東条吉良家の家督を継承する。しかし、1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると義昭は今川氏の後ろ盾を失う。義昭は家康に攻められ敗北、三河一向一揆で再起するも敗れ、三河を追放される。吉良家の家督は再び義安に戻ることになるが、これを支援したのが家康であった。この義安の子孫が忠臣蔵でおなじみ、吉良上野介義央である。

以上が吉良氏の歴史であるが、こう考えると義昭攻めの際に荒川義広が家康を支援するのはなんとなく理解できる。義昭は血筋としては遠縁であり、義理の甥を追い出して東条吉良家の家督を強奪した人物である。流石に別家を起こしているので自身が成り代わろうとまでは考えていないと思われるが、義安の復権は考えていたかもしれない。この時の戦功で一説には家康の異母妹・市場姫を娶ったとされている。
ところが、今回の三河一向一揆で義昭と行動を共にし、家康に叛旗を翻す。この経過は本当に謎に満ちている。あえて理由を見つけるとすれば、吉良義昭を撃破したにも関わらず義安の復権は叶わず、三河の実効支配を進める家康に対し、吉良家による三河の支配権復活を目論見、大同団結を行ったと考えればよいだろうか。
結果的にはこの蜂起は失敗。義広は三河国を追われる。河内国で病没したことがわずかに記されたのみである。異説では三河国内に隠棲したというのもあるが、いずれにせよ武家として勢力を保った荒川家はわずか一代で終わりを告げたことになる。

こうして三河動乱が決着していく裏ではこのように多くの武将が命を落としたり、所領を追われたりした。彼は命を拾っただけ、まだ幸せだったのかもしれない。

次回はまたトンチキ回非戦乱パートである。側室…だいじょうぶでしょうか。


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