【大河ドラマ連動企画 第23話】どうする之綱(松下之綱)

※後追いで追加中

武田と徳川のせめぎあいが激しさを増す中、圧倒的な織田軍の力を見たことで思うところがある徳川親子。そして周りからの期待に押しつぶされそうになり心の均衡を失いつつある信康。そんな時、ついに瀬名が立ち上がる。それは悲劇の序章であった。
信康の凶行を家康譲りの優しさと周りからの期待という重圧で表現する。歴史解釈の妙については古沢氏の脚本はやはり素晴らしい。

それはさておき、ちょうどこの頃は高天神城・小山城・諏訪原城辺りを巡る戦いが激化している頃である。長篠の戦いを挟んだこの前後の攻防戦を調べている時に意外な人物が出てきたので、今回は少し時間が巻き戻ることにはなるが彼を取り扱おうと思う。彼もまた「どうする」に直面した人物だからである。

その人物の名は松下之綱。あるいは「松下加兵衛」の方が聞き馴染みがあるかもしれない。
松下氏は近江源氏佐々木氏一族六角氏の庶流を祖とし、三河国松下郷に移住したことからその名を名乗ったと言われる。以降、三河~遠江にあった松下氏は今川氏に属することになる。之綱は槍の達人と称された長則の子として生まれ、今川義元に仕える。頭陀寺城という小さな城の城主として今川氏の元に、ある人物が仕官を求める。非常に優秀だった人物であり、之綱が学問・武芸・兵法を教えたがその後出世が見込めなかったようでその人物は之綱の元を離れていった。

之綱はその後、桶狭間の戦いで主君・今川義元が戦死すると起きた混乱・遠州忩劇の中で城を攻め落とされる。そして今川氏も滅亡してしまう。

その後徳川家康に仕えていたのだが、第1次高天神城の戦い(天正2(1574)年)において籠城の末、城将・小笠原信興と共に武田勝頼に降伏。仕官を望まず開放されたが、行く宛がなくなってしまったのである。

そんな時に之綱に声をかけた人物がいる。かつて自分が召し抱え、学問や武芸を教えた人物が織田家において城持ちにまで出世していたのだ。その人物こそ、羽柴秀吉である。『太閤記』においても有名な松下加兵衛と若き日の秀吉の関係が彼を救ったのである。
その後、新参とも言える彼を秀吉は厚遇。最終的に遠江久野城主として大名になる。しかも、近年の発掘調査では城の規模に比して瓦などの格式が高かったことが伝わっている。
身分の低い流れ者に目をかけた結果、その人物に恩返しされるという幸運を得た之綱は秀吉と前後するように慶長3(1598)年、この世を去る。

私見であるが、時に歴史の歯車を回すためだけに登場した人物がいるのではないか、と思う時がある。例えば平氏を滅ぼすためだけに現れた源義経や、幕末期に薩長土や幕府の周旋を執り行った坂本龍馬。そして、若き日の秀吉の才覚を見出した松下之綱も、それ以外はあまりぱっとしないが、彼が居なければ日本の歴史はまた大きく変わっていたに違いない。

ちなみにこれと対照的だったのが同じく今川家臣だったが武田氏に属し高天神城を守った孕石元泰である。一説には若年期の徳川家康をいじめていたとも言われており、武田家臣の中では珍しく処刑されている。無論、徳川家康が武田遺臣に寛大な処置を行ったのは武田氏の完全な滅亡以降であり高天神城の攻防戦では最終的に城将・岡部元信の戦死に加え武将の殆どが処刑されているため俗説の域を出ないが、松下之綱の扱いと比べるとやはり、どこか因果応報と思ってしまう。

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