【大河ドラマ連動企画 第37話】どうする◯◯(大久保家の人々)

尺が足りなくなってきたため、小田原征伐と関東入部が1話で終わってしまった。湯漬け食べる描写しかなくマジで何考えているか分からなかった氏政が割と英邁な君主っぽく描かれていたのが救いだがもう少ししっかり描いて欲しかった、という気もする。一方でますます狂気を増して暴走する秀吉。
リアル世界でも暴君が経営する会社に雇われ色々苦労していた佐藤隆太秀長も心労がたたり?遂に病没。家康は領地整備に家臣団のとの関係調整、豊臣家の政治協力と「時が足りねぇ!」状態。残り話数も「時が足りねぇ!」

さて、今回は小田原城を任され、堂々の退場を遂げた大久保忠世の兄弟について取り扱おうと思う。
そもそも、大久保氏は松平家譜代の一つとされているが、大久保の名字になったのは忠世の祖父の代と言われている。それまでは武茂氏、次いで宇津氏を名乗っていたが忠茂の代に越前の武芸者・大窪藤五郎にあやかり一族が「大窪」と改姓、その後「大久保」に改めている。
忠茂の子は忠俊、忠員、忠行の3系統に分かれる。それぞれについて簡単に記す。

①忠俊系

忠茂の嫡男・忠俊は松平清康(家康の祖父)に仕え武勇に優れた将として活躍する。森山崩れによって清康が暗殺されると松平信定(桜井松平家)に属するが裏で広忠に通じその復権に尽力。織田信広の安祥城を攻め落とし人質とすることで竹千代(後の家康)の奪還にも成功する。嫡男の忠勝も勇猛で知られ、蟹江城の戦いでは蟹江七本槍の一人に数えられているが、三河一向一揆で目を射られ負傷、その後は家康の御伽衆となっている。以降は旗本として存続した。
また、忠勝の弟の忠政は忠俊の弟・忠久が三河三木城攻めで戦死したためその跡を継ぎ、その後旗本として存続しているが、この末裔が幕末に活躍した名臣・大久保忠寛(一翁)である。

②忠員系

忠茂の次男・忠員は兄・忠俊と共に安城松平家・広忠に仕える。広忠と信定の岡崎城を巡る争いの中で信定についていた弟・忠久を忠俊と共に説得、寝返らせることにも成功している。この忠員の嫡男こそ、三河イチの色男、忠世である。忠世の説明は本編に譲る。その子・忠隣は不遇が続く。功臣・大久保氏の代表として老中にも就任するが、嫡男・忠常が急逝すると意気消沈、政務を怠りがちになる。その他大久保長安事件への連座や無断婚姻などが原因で最終的に小田原藩を改易となる。忠常の子・忠職は許され、その養子・忠朝が小田原藩に復帰し幕末まで存続した。
忠世の弟として忠世と共に信長に称賛されたのが次男・忠佐である。一言坂の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いと徳川家の主要な合戦で活躍するが、実子は早世。弟の忠教を養子に迎える案も検討したが忠教が固辞。そのまま無嗣断絶となった。ちなみにこの忠教こそ、『三河物語』の著者・大久保彦左衛門である。
以降の兄弟は早世が多い。三男・忠包は藤浪畷の戦い(永禄4(1561)年)、四男・忠寄は三方ヶ原の戦い(元亀3(1573)年)、五男・忠核は遠江乾城攻め(天正2(1574)年)で戦死している。六男・忠為は石川史総(大久保忠隣次男)の与力となった後、子孫が大名となり家名を保っている。

③忠行系

忠茂の五男にして数奇な運命を辿ったのが忠行である。三河一向一揆の際に負傷し、歩行が不自由となってしまった忠行は早々に武士としての出世の道を絶たれてしまう。ところが彼には不思議な特技があった。菓子作りである。三河の一家臣の末っ子がなぜそんなものを覚えていたのかは定かでないが、どうやらかなりの腕前だったようで家康にも度々献上されていた。それにより「菓子司」という専門職に任命されている。家康は毒殺をおそれ、献上品の餅には手を出さないようにしていたが忠行のものだけは喜んで食べていた、という伝承もある。三方ヶ原の戦い以降は出陣前に菓子を献上するのが通例となっている他、江戸幕府御用達の菓子職人の一族として子孫は江戸城内の行事で使用する菓子を献上していたという。
加えて、この忠行、家康の関東移封の際には江戸城の上水整備を命じられ、神田上水の元となる上水道を整備する。この功績から主水の名を賜るが、実に面白いのが本来「もんど」と読むところを「水が濁らぬように」と「もんと」と名乗らせたという。

こうして、大久保家は幕末まで多くの家系が存続することになる。あるものは大名として、あるものは旗本として、またあるものは菓子職人として。改易されたものも多いが幕閣の重臣にもなった人物も数多い。
それは大久保一族が常に安城松平家への忠誠という「選択」を続けた結果であり、徳川幕府を作るのに大きく貢献した証左であろう。

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