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④ 死刑合憲判決 邑神一行(19)

邑神一行(犯行時19)は事件そのものに触れた資料は少ない。新聞では中国新聞や夕刊ひろしまあたりも探したが一部しか見つけられていない。一番内容を詳しく知ることが出来るのは広島高裁の判決文
【D1-Law:ID24000076】

事件

邑神一行は小学4年生の時に父が亡くなり料理店の板場や自動車会社で助手などをしていたが浪費が原因で辞めさせられ、母と妹が暮らす生家(広島県佐伯郡吉和村)へ戻っていたが、田舎の生活が肌に合わず仕事もせずにぷらぷらとしていた。
日頃から働かない事を咎められ邪魔物扱いされていたが、一行が近隣から米を盗んで煙草などに換えていた事が発覚し、その事が原因で母妹に「米を借りていたが、出来なくなった。お前のせいだ」と言われこの頃から母妹に殺意が芽生えていた。
そして昭和21年9月15日に遊びから帰った一行の夕食は無く「仕事もせずに遊んでるものは食べなくてもよい」と冷たく言い放された事で殺意が強くなり日付が変わった9月16日深夜に藁打槌で二人を殺害し古井戸に投げ込んだ。
事件発覚は翌年の1月16日午後6時ころ(判決文では17日になっている)友人T本が「最近、邑神の母妹の姿が見えない。祭りの時でも見かけなかった」と心配そうに言ったところ、邑神は黙り込んで下を向いてしまった。
何気なく古井戸の蓋を開けて見たら人のようなものが見え、びっくりして問い詰めたら邑神の顔が青ざめたために最寄りの駐在所に届けた。
邑神の母と妹は近所の人から家出保護願いが出されていた。翌17日に遺体はこの二人と判明し邑神一行が警察に引致取り調べをうけ犯行を自供し実母妹殺害の容疑濃厚のため18日に廣島地検が実地検証に向かった。
(記事では村上一行となっています)
遺体は死後数ヵ月経っているが、2月15日付の鑑定書では母妹の頭部の傷は生前のものでこの傷を負ってまもなく死亡した模様と記されている。
【昭和22年1月19日中国新聞】【D1-Law】

死刑制度合憲判決

昭和22年1月22日に起訴【GHQ文書】
昭和22年2月20日 予審終了 【GHQ文書】
廣島地裁で昭和22年5月16日に第一刑事部植山裁判官、大町検事が担当で求刑公判が開かれ死刑が求刑された【中国新聞昭和22年5月19日】
同年5月23日に無期懲役判決
昭和22年8月25日に廣島高裁で逆転死刑判決
【共に刑集37巻6号】
弁護人西村直人は「死刑は残虐で違憲」と上告するも昭和23年3月12日に棄却され死刑が確定した【読売昭和23年3月13日】【消えゆく最後の野蛮】
この判決は後の死刑判決の際にたびたび出され、事件よりもこの判決の方が有名になってしまった。【読売昭和30年3月27日】の記事などで最高裁の見解として紹介されている【判決文は下記リンク】http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=56385(憲法13条、31条、36条)

※他の同様(憲法31条)の最高裁判断1949.8.18(集刑13)

邑神一行は昭和24年7月27日に死刑が執行された。
収監中には面会や手紙のやり取りなどはなく、遺体はK大学の医学部に送られた【GHQ文書】
向江氏の【死刑廃止論の研究】の432Pの表に昭和23年3月12日に確定した者が上記日に執行されたと記されている。GHQ文書でも同じ日付で執行始末書が残っている。

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