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⑰ 小田原一家五人殺害 杉山優(18)

小田原一家5人殺害事件

昭和24年9月14日深夜1時過ぎ、神奈川県小田原市の銭湯経営者一家(田浦湯)が襲撃され5人が死亡し、残る一人も重傷を負った事件の加害者は杉山優。18歳の少年だった。
夫婦とその母を鉈で殴打し殺害、子供たちは電気コードで締め付けた上で包丁で刺殺するという残忍な事件だった。同日深夜3時半頃に叔父を起こして相談し朝7時頃に自首を決意し叔父に付き添われて朝9時頃に足柄署に自首した。
杉山の両親は二人とも他界しており(母親は事件の1年前)弟と二人で叔父の元で暮らしていた。働いていた電機会社は不景気で失職しプラプラしていた。日頃から被害者家族とは仲が悪く、隣家の銭湯の女湯を覗いた事を咎められて、また風呂屋が増築した影響で杉山の部屋に雨の雫が入るようになったりして日頃から恨みがあり一ヶ月も前から殺意を持っての凶行だった。
また杉山の部屋からは猟奇小説が数冊見つかった。
凄惨な現場で亡くなった次女(7)と長男(4)の傍らにはデンデン太鼓と絵本があり、捜査員はいたたまれなくなり涙する者もいたと当時の新聞が報じている。
少年による事件ということで自主規制したのが読売や神奈川新聞で「杉山昇」「杉田勇治」などの仮名で報道され神静民報は実名報道だったが、この時代としては珍しく写真の掲載はなかった。
当初は引き出しを開けて物が散乱している状況に小田原地検は強盗殺人で逮捕状を出したが、怨恨による殺人後に窃盗の意思が湧いたという論調もあり慎重になり(結局は殺人罪になった)、被害者M子さんが入院中の病院で一問一答も行われた。
同年の12月末にはただ一人一命を取りとめたM子さんが取材に対し、退院して自分が人を雇い経営するつもりだった田浦湯が小田原浴場組合の組長にまかされた別人が移り住み営業していた事に「女だから子供だからとは心外で仏も浮かばれないと存じます」と述べている。(斎藤氏の著書によるとM子さんは結婚し3年後に田浦湯経営をしている)
杉山はこの時、三回目の公判を終え分裂病質による精神異常と鑑定され「早く死刑にしてくれ」と小田原拘置所でうそぶいている。
※現在、田浦湯は取り壊され裏手にあるお寺の駐車場になっている。尚、事件時に被害者宅と杉山の居住地が同番地との文献が見受けられるが神静民報では番地は一つ違いである。
【昭和24年9月15日と16日の神奈川新聞】
【同日読売神奈川版】【恩赦と死刑囚】
【昭和24年12月29日読売神奈川版】
【昭和24年9月15日~18日神静民報】
※【刑集37巻6号】では次女(8)長男(3)になっている

死刑確定後に恩赦で無期懲役

昭和25年1月12日 横浜地裁小田原支部 死刑(求刑死刑)
【神静民報50.2.8】によると一審で死刑判決を言い渡された杉山は控訴の意思はなく「死刑を受け入れる」と言ったが、国選弁護人の福井が「費用は全て自分が負担する」と説得し一度は控訴手続きしたが、2月4日に「早く刑を受け入れたい」と再び控訴を取下げる意志を示した。再度の説得も意思は固く同月6日に判決を下した三淵裁判長が飴を持って拘置所を訪れ、その際に「裁判官ではなく、一人の人間として訪ねてきた。」と控訴をすすめると、杉山は「では何故死刑にしたのですか?毎日イライラして苦しい。もう誰にも恨みはない。お婆さんや子供が夢に出てくる。早く刑を受け入れた方がいい」との言葉に三淵が温情を示しながら少しずつ説くと「もう少し考えてみます」と後に控訴した。
昭和26年3月20日 東京高裁 控訴棄却
昭和26年9月6日 最高裁 上告棄却
【刑集37巻6号】
【昭和25年1月13日神奈川新聞と神静民報】
【集刑52】


昭和27年4月28日 政令恩赦により無期懲役に減刑
【河北52.4.29】
【日本の死刑】に「M.S(東京)52.9.13確定で5人殺害で犯行時(19)」と若干違うが、時期的に杉山しか該当者がいないのでこれがそうだと思われる。

仮出所中の再犯

杉山は無期懲役に減刑された後は宮城刑務所に収監され昭和45年3月に宮城刑務所を仮出所し、横浜のコスモ印刷で印刷工をし真面目に働いていた(出所後5回目の職場)【アサヒ芸能84.7.26】
しかし、ある少女と出会いまたも罪を犯してしまう。

アイドル誌に掲載された殺人未遂事件

何か杉山の事件を扱ってる週刊誌はないかと探していたら、何とあのアイドル誌の【週刊明星84年7.26/30号】に杉山の再犯の事件記事が掲載されていた。
『仮出所中の元死刑囚が女子中学生をメッタ刺し! 』
当時の明星にはショッキング枠みたいなのがあったようだ。(因みに次号予告は『これが覚醒剤だ!』と記載あり)
以下、明星の記事から

杉山が少女A子(14)と出会ったのは昭和56年9月ごろでA子がまだ小学生の時だった。杉山から声をかけて仲良くなったようだ。そしてA子からB子(13 )を紹介し、B子は横浜で杉山と同居を始める。
しかし、B子は飽きたのか同居二ヶ月で「もう別れる」といったが、諦めのつかない杉山が追いかけてきた際に「ハゲおやじ帰れ」と罵倒した事で殺意が芽生え、昭和59年7月8日夜、東京の杉並、明大前の歩道橋でA子とB子を登山ナイフでメッタ刺しにして逃走。少女二人は幸い命はとりとめた。

週刊明星84.7.26

読売新聞のスクープ

日付が変わった9日深夜、杉山の自宅アパート前(こちらは現在取り壊され別の民家が建っている)には捜査関係者らが待機していた。読売新聞横浜支局員を乗せたタクシーが自宅付近で杉山らしき男が逃げるのを発見し、顔を確認し高井戸署員に知らせ、杉山が逃走した方向へ捜査員らと向かい黄金町駅近くの白金町で電話をかけようとしている杉山を発見。路地裏に逃げてナイフを構えた杉山を捜査員らが囲み、取り押さえ逮捕した。
逮捕前の杉山の写真を撮ったのは読売新聞だけだった。
【昭和59年7月9日読売夕刊】
杉山は懲役8年の刑が言い渡され仮釈放も取り消され宮城刑務所に収監された【恩赦と死刑囚】

ネット上の杉山の命日

斎藤氏の【恩赦と死刑囚】で「2009年2月15日に宮城刑務所で自殺した70代の受刑者がいたが、杉山の可能性がある」としているが、杉山の命日はネット上には2009年10月29日と2009年10月27日という日にちが出回っている。
因みに2009年10月27日は同じ小田原でタクシー運転手を殺害した死刑囚が病死した日である。
斎藤氏の本やこの死刑囚の病死がごちゃまぜになりネットで広まったのではないかと思われる。


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