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誤記載で最年少になった? S.T(15)

死刑事件に興味関心を持ち始めると、様々な記録が気になってくるのは私だけではないだろう。
「最年少は誰々だ」「最短執行は誰だ」とネット上でも見受けられるし、年齢や執行までの期間などは死刑制度を考察するうえでは貴重な情報となる
今回は『犯行時15歳に死刑が求刑』されたと刑事裁判資料に記載され、それを参考にしたであろう某少年犯罪系のサイトなどでも発信されているという事案を記す。

小名浜で発生した祖父母殺害事件

昭和23年8月30日午後9時頃に福島県石城郡小名浜町(現いわき市)にて就寝中の老夫婦のOさん方に風呂敷で覆面をした二人組の強盗が侵入した。
目を覚まして気づかれたために縄で縛り室内を物色していたが、日付が変わった午前3時頃に縄がほどけた主人のOともみ合いになった際に覆面が取れ、「T坊かい?」と顔を見られバレたために夫婦を縛り上げて布団で包み窒息死させ金品を奪い逃走した。
翌日に近所の人が遺体を発見し、捜査が開始されて
①荒らされた室内が限定的である事から内情をよく知る人物
②地下足袋の足跡が同居していた孫のものと同じ
などから一週間前に家を出ていたS.T(15)が有力とされ翌月の9月8日に栃木県宇都宮市内にて検挙された。

S.T(15)の生い立ち

S.Tは茨城県出身で三歳の時に母が、7歳の時に父が他界し、兄は戦死し姉が三人いるがそれぞれがバラバラになり他家に引き取られた。S.Tも転々として事件の5ヶ月前に被害者となった祖父母のO家に引き取られ農業の手伝いをしていた。
かねてから酒を飲んだり、寝小便をしたりを注意されて居心地が悪くなり、300円(昭和23年はコーヒー一杯が20円)を渡され家を出たがあてもなくふらつき茨城県水戸市の駅構内で寝泊まりするようになった。
ここで事件の概要に記した、『二人組』のうちの一人のO島(21)と知り合い、S.Tは湯本までO島は名古屋までの汽車賃が必要で「祖父母の家に行って金を奪おう」とS.Tが持ちかけて同意のもとに犯行を決行した。
被害は現金4千数百円と衣類十数点でこれらをつめこんだリュックは姉のもので犯行後に始発まで時間があるからと現場で食事をする大胆さだった。

資料によってバラバラの求刑

裁判は福島地裁平支部で開かれた。
昭和23年12月21日の判決公判で二人に無期懲役が言い渡された。この判決は間違いなさそうなのだが、問題は求刑である。
刑事裁判資料56号の下では求刑死刑
読売新聞福島版では求刑懲役15年
福島民友では10年から15年の不定期刑であった。
(共犯のO島は死刑求刑で無期判決)

こうなるとどれが本当なのかは不明だが、仮に死刑が求刑されていたら公判翌日の記事である新聞二紙が間違えるだろうか?個人的には15歳に死刑が求刑されたのは裁判資料の誤記載なのではないか?と感じた。
そうなるとS.Tは求刑超えの判決となりこれも興味深い。翌日の福島民友に控訴したとの記事があるが、誰が控訴したのかも不明である。
刑事裁判資料では翌年4月27日に仙台高裁で両名とも死刑求刑で無期判決になっているが、新聞記事は未発見である。それぞれが上告せずに確定した。

※折原臨也リサーチエージェンシー様調べでは旧少年法でも16歳未満には死刑は選択できないが、当時は尊属殺人や皇族への犯行は例外とされていた件と刑事裁判資料には求刑の誤記載が他にも数件あると教えていただきました。

最後に
判決文を含む裁判資料が絶対ではない事と様々な資料から総合的に判断しなければならないと改めて思い、今後も調査活動を続けたいと感じた。
また検事が求刑を決めるときに過去の裁判資料を参考にするのなら、15歳に死刑が求刑された件が誤記載なのに事実として記録に残っているのは問題ではなかろうか?と思った。

参考資料
【刑資56号下】【福島県犯罪史4巻】
【読売新聞福島版昭和23年9月1日~9日と12月22日】【福島民友昭和23年12月22日と23日】


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