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⑤ 戦後最年少死刑囚 鬼頭正一《伊藤孝助》(17)

事件

伊藤孝助こと鬼頭正一は不良グループ愚連隊のメンバーのリーダー格で通称『隼の政』と呼ばれていた。
盗みを繰り返して、とうとう強盗殺人までやらかした。事件は愛知県愛知郡天白村で昭和22年6月21日に仲間ら数人と民家に侵入し、女性2人を布団で包み縛り上げて一人を窒息死させ、もう一人も瀕死の状態にしこの女性も3日後に亡くなった。衣類等30点以上を奪い屏風には「大阪八王寺に来い」などと落書きがされていた。
【中日新聞昭和22年6月23~26日】
【読売昭和22年9月29日】
奪った品を質屋に入れた事で複数の指紋を検出。22日早朝に電車内でトランクや布団を持っている少年グループが不審な会話をしていたのを目撃者が通報し、同月25日の夕方に少年らに関わったブローカーの後藤七郞(30)を皮切りに東山植物園の近くに巣食う愚連隊の少年達が次々と検挙された。鬼頭(伊藤)も同日に逮捕。
一名は逃走し手配されるも翌日中には逮捕。
このグループは同月19日にも強盗事件を起こしていた。
検挙された者のうち3人に窃盗の前科があり仮釈放中だった。少年らは16~17歳で全員が中日新聞に顔写真の掲載があった。
この時代としては珍しい警察犬ユンケル号(探偵犬と呼ばれていた)も捜査に参加していた。
※斎藤氏の【恩赦と死刑囚】では21日に一人逮捕されたとあるが、当時の新聞では確認出来ていない。
【中日新聞昭和22年6月29日】

少年たち

少年たちは片親で兄弟が多く貧しい家庭環境に育ち、家出をしプラプラとしている所を寄せ集まり不良グループを形成し、スリや窃盗を繰り返していた。(鬼頭はその中のリーダー)
闇市に魅力を感じ、盗品を売りさばき、ギャング映画の主役に憧れ、最初はスリだったが強盗殺人までするようになってしまった。
鬼頭は8歳で父と死別し14歳で家を出て16歳まで大阪天王寺近辺でチンピラ仲間とつるんでいたが、その後に愛知に流れ着いて窃盗や強盗を繰り返していた。

中日新聞48.6.10

裁判

昭和22年9月4日に名古屋地裁で死刑判決
同年同月11日に「面倒くさい。死刑でいい」という本人に変わり弁護人が特別控訴の手続き
昭和23年3月11日に名古屋高裁では「死刑を望む本人の意に反するので却下」と控訴棄却になり上告をしなかったために鬼頭の死刑が確定した。この時代は覆審制のため控訴棄却は珍しい。
旧刑訴法418條上告期限は5日のため正式確定日は昭和23年3月17日。
【刑集37巻6号】【中日新聞昭和22年9月12日】
※犯行時17歳4ヶ月での死刑確定は戦後最年少。また確定時18歳1ヶ月も戦後最年少。

共犯の少年の一審判決(カッコ内求刑)
無期懲役(死刑)、5~10年不定期2名(15年)、3年6月~6年(10年)、5~8年(無期)、3年6月~5年(5年)
16~17歳による犯行
無期判決の少年も控訴しているが、二審も無期懲役判決
(他にも闇市に関わった成人が数人実刑判決を受けている)

新聞紙上でのアンケート

昭和22年10月13日付けの読売の記事に『少年囚に死刑は是が非か』読者アンケートの結果が載った。
それによると7割2分が死刑判決を支持するという結果であった。
過去に十回以上あった紙上討論企画では記録的な反響だったと記されている。

控訴棄却時の言葉

「僕に残された道はただただ自分の殺した人々のもとへ一日も早く行き謝ることです。では皆様お元気で、一恩は一生忘れません」
【中日新聞昭和23年3月12日】

名古屋刑務所での鬼頭正一

名古屋刑務所に収監された鬼頭は荒れに荒れまくった。後から確定して入所してきた横井敏一(成人)ら9名の死刑囚を引き連れて(自分より年上相手に前に出る性格はスゴい)ドアやガラスを破壊。
刑務官に対し「お前を殺して自殺してやる」と短刀で脅し、更には「食事の量を増やせ!運動時間を増やせ!」と要望。「所長に会わせなければ房に入らない」と子供のように駄々をこねた。
そうかと思えば急に泣いたりと情緒不安定な所を見せたりもした。
厄介払いがしたかったのか、少年法改正の動きを知っていたからなのか、刑務所が出した恩赦願いにも「勝手なことをするな。俺は死刑でいい」と言い放った。
【中日新聞昭和23年6月10日】

少年法改正で恩赦になり無期に

そんな鬼頭の(本心なのかはわからないが)言った通りにはならず、同年7月15日新少年法が公布され18歳以上でなければ死刑判決を出せない事になり犯行時17歳だった鬼頭(他にも17歳時の犯行が二名いる)は翌年3月23日に恩赦となり無期懲役に減刑された。
この事はGHQ文書にも記録が残っている
【恩赦と死刑囚】【GHQ文書】

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