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㉛ 小松川事件 李珍宇《金子》(18)

小松川事件とは

昭和33年8月17日午後5時ころ、東京都江戸川区小松川高校の屋上で読書中の定時制二年の女子生徒(16)が同校定時制一年の金子鎮宇こと李珍宇(18)にナイフを突きつけられ、大声を出そうとしたところを首を絞められ殺害され金品を奪われた挙げ句に姦淫された事件。
同月28日に電話ボックスから読売新聞社に事件の詳細を話す男から電話があり(電話は計5回)この男が犯人と断定し、声やしゃべり方から同年9月1日に自宅にて李珍宇を逮捕した。
なんとそれだけではなく、同年4月20日に同区上篠崎町(李珍宇の自宅近く)の田んぼで若い女性が殺害された件も李珍宇の犯行と判明した。
当時の新聞に現場の写真があるが田んぼばかりが広がる田舎のような風景でとても東京とは思えない場所で、よく痴漢が出没するエリアとなっている。
【昭和33年4月21日読売】【昭和33年9月2日読売】
【昭和33年9月2日北海道新聞】
※たまたま見つけた北海道新聞に逮捕記事と学ランを着た写真の掲載がありました。

裁判

昭和34年2月27日 東京地裁 死刑
昭和34年12月28日 東京高裁 控訴棄却
昭和36年8月17日 最高裁 上告棄却
【刑集37巻6号】【集刑139】
※当サイトで確認されている者でも31人目なのに当時の記事では『戦後20人目の少年死刑囚』とされている。当時の情報量不足は仕方ないとは思うが、戦後まもなくは裁判記録も残っておらず未確認の死刑囚もいる事は付け加えておきたい。

東京拘置所の李珍宇

李珍宇が朝鮮人で貧しい家庭環境で育った事や成績優秀でIQが平均の1.5倍もあることはネット上でもまとめられている。
ここでは拘置所内での話を書き記すことにする。
李は東京拘置所で「夜がこわい」「一人がこわい」と雑居房入りを希望し6人と共同生活を送っている。
『本気違い』というアダ名で、体操時間は人一倍動き、自由時間は図書室に直行し、宗教や哲学本を読み漁る毎日、また「自己を見つめる」「生と死の対決」などの文筆を大学ノート12冊分に書き残している。『李』とよばれる事を嫌い「金子と呼べ」と声を荒げるなど国籍のコンプレックスもあったようだ。
【新潮59.6】

週刊新潮59.6.15

期限一時間前の上告

李珍宇には上告の意思はなかったが、ある大学教授が李の事を知り「とにかく一度面会しよう」と面会したのが昭和35年1月11日昼で上告期限が切れる日だった。本人と話をしたことで(李には上告の意思がない)この大学教授を中心に減刑運動がはじまる。のちに『李少年を助ける会』も発足される。
上告期限が迫る中で、この教授は両親なら上告が出来る事を知り、李の事を最初に教授に話をした教え子(朝鮮人)が父親の元に行き、高裁の窓口に向かったが担当の弁護人は連絡が取れずにいて困っていた。しかし「弁護士なら誰でもいいと」知り、教授の知り合いの関係から協力してくれる弁護士に依頼し書類を提出したのは上告期限の1時間前だった。
【昭和35年1月31日読売】【世に出ていく君たちに、第3】
【昭和37年9月7日読売】

李珍宇の死刑執行

昭和37年11月16日、確定から1年3ヶ月目での死刑執行だった。同年5月には『李君の助命を願う会』も立ち上がり法務大臣に嘆願書も提出され日本と韓国から約3万8千の署名が集まっていた。
【昭和37年11月17日読売】【日本の死刑】




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