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⑨ 粗暴な大男 遠藤進(19)

事件発生まで

遠藤進(犯行時19)は異父兄を含めると7人姉弟で貧しく、東京の原宿二丁目でバラックで生活していた。
遠藤自身は船員や米の闇売買などをしていたが、夫婦仲が悪い父が仙台で大工をしていると聞き、昭和22年5月下旬に仙台へ出向いた。
しかし、父とは会うことが出来ずに、仙台駅で寝泊まりをしていた所に共犯者となる藤倉二郎(20)と出会い、藤倉から「一軒家で相当金を溜め込んだ老夫婦がいる」と聞き、金に困っていた遠藤から「そこへ行って金を脅し取ろう」と持ちかけ藤倉がこれを了承した。

犯行決行は同年6月6日、福島県伊達郡伊達崎村にて不良仲間の少年Oと他一名が加わり現地に行き、遠藤と藤倉で様子を見に行った所、他二名の姿が見えなくなったので二人で決行をすることを決め、裁判所の職員になりすまし、調査を装い雑談をしたが機会がなく「殺害して奪い取ろう」と藤倉と決め行動に移した。
同日21時頃に夫婦を絞殺し金品を奪い逃走した。
【刑事裁判資料56号】【福島県犯罪史4巻】

捜査から逮捕まで

事件は迷宮入りの様相を呈した。これは遺体の状況から捜査の初期段階で犯行日を6月9日として動いていた事が大きい。
しかし、聞き込みを続け6日の怪しい男二人の目撃証言や近くの寺で発見された傘、濡れた男の目撃証言などから警察官が手帳に付けていた天気と照らし合わせ9日は曇り、6日は雨と記されていて6日説が有力となった。
また被害者の息子は宮城刑務所で藤倉と一緒で「出所後にうちによったら差し入れしてくれ」と話をしていた事が判明し、6月29日に藤倉への任意の取り調べであっさり自白。
藤倉がもっていた写真から遠藤らが手配され翌7月3日に潜伏先で遠藤と少年Oが検挙され事件は解決した。
(記事中に三警官過労で発病とありました)
【福島民友昭和22年7月5日】【福島民報昭和22年7月5日】

遠藤進の風貌

【福島民報昭和22年7月10日】に7月9日の実地検証の際の記事がある。遠藤は「随分の人出だねぇ。まるで大山元帥の歓迎会みたいだ。お前ら俺みたいな人間になってはいけないよ。歌でもうたおうか」と不貞腐れて六尺近い大男(約180cmで当時としてはかかなり大きい)はカメラを向けた記者を睨み付け「どこの新聞記者だー」とどなりつけた。
反対に藤倉はニヤリと笑うだけで静かに警察車両に乗り込んだとある。
(この時の写真があるが、ネクタイをだらしなくぶら下げ、髭を生やし、確かに藤倉より頭1つ大きい)

福島民報47.7.10

死刑確定

昭和22年9月18日 福島地裁 死刑
昭和23年9月7日 仙台高裁 死刑
昭和24年3月3日 最高裁 上告棄却
【刑集37巻6号】【集刑8】
※藤倉も死刑確定。少年Oは懲役1年執行猶予3年。他一名に関しては処分不明

死刑執行

遠藤の死刑執行日はGHQ文書の死刑執行始末書で確認出来る。
昭和25年1月20日午前10時1分。共犯の藤倉(死刑確定)と共に死刑執行された。
遠藤は家族との面会や手紙のやり取りが多かった事が記されている。父6回、母2回、おじ1回、逮捕時に一緒にいた内妻S.S(20)も5回面会に訪れた。手紙での通信は66通で執行後は遠藤の要望により遺体は解剖実習のためにI大学に送られた
【GHQ文書】
逆に藤倉は面会や手紙のやり取りもなく寂しく執行された。

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