『竜殺しのブリュンヒルド』考察

https://dengekibunko.jp/product/ryugoroshi_brunhild/322110000036.htmlより引用

著者 東崎惟子 イラスト あおあそ
『竜殺しのブリュンヒルド』

著者の東崎先生がとあるインタビューで『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』を熱中しているゲームに挙げていたので、これは読まなければいけないと思い読みました。この作品を読んでしまった以上、PCを起動させて文章を書くのは当然のことです。

これはオタクの宿命だと思うのですが、面白い作品に出会ったら語らずにはいられません。そこに自制を加わえられるようになった瞬間にオタクは真人間になるのでしょうが、まだそちら側には行けませんし行きたくもありません。

というわけで今からこの作品について考察し、その魅力を解き明かしていこうと思います。

それでは始めます。

この考察は、『竜殺しのブリュンヒルド』がなぜ電撃小説大賞投稿時に『黄昏(たそがれ)のブリュンヒルド』というタイトルだったのか、という問いから始まります。

【黄昏=誰そ彼について】


『竜殺しのブリュンヒルド』は、電撃小説大賞へ投稿された時は『黄昏(たそがれ)のブリュンヒルド』というタイトルでした。著者はなぜそのようなタイトルをつけていたのでしょうか?

それを考える際のヒントとなるのがこのインタビューです。

先にも記しましたが、このインタビューで東崎先生は熱中しているゲームに『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』を挙げています。『さよ教』をプレイした人はご存じだと思いますが、『さよ教』は「永遠の夕暮れ=黄昏時」を描いた作品です。東崎先生が『さよ教』に熱中していると答えている以上、このゲームに影響を受けていると考えるのは自然なことです。

では、具体的にどのように影響を受けたのでしょうか? まずは以下の画像を見ていただきたいと思います。

『さよならを教えて ~comment te dire adieu~』( CRAFTWORK、2001年)より抜粋

『さよ教』の一場面です。恐怖と安堵。嫌悪と愛着。不可解と理解……。『さよ教』ではことあるごとに、上記のような相反する概念の両立が出てきます。加えて、『さよ教』は狂気を扱ったゲームとして有名です。

相反する概念の両立と狂気。この二つのモチーフは、芥川龍之介の『歯車』にも見ることができます。最近では映画『ジョーカー』にも垣間見られます(『ジョーカー』に関してはうろ覚えですが……)。おそらく、相反する概念の両立と狂気は親和性が高いのでしょう。

ではどうして、その二つは親和性が高いのでしょうか?

これは自分の勝手な想像ですが、優れた狂気を書いている人自体は正気であるという矛盾が投影されているからではないでしょうか。『さよ教』であれ『歯車』であれ、そこにどれほどの狂気が書かれていたとしても、書いている人が正気であるからこそ人気があります。完全に狂気の世界へ足を踏み入れた人の文章は、到底読むことができません。

狂気を書いている人自体は正気であるという矛盾が、相反する概念の両立と狂気の親和性を高めていると自分は思っています。

さて、自分は今二つのモチーフについて書きました。相反する概念の両立と狂気。今回考察する『竜殺しのブリュンヒルド』には、少なくとも前者については見られると思っています(後述しますが、狂気に関しては『さよ教』などに比べるとかなり薄まっています)。

それは具体的に何か。一つは、小説本文を読まなくともわかります。その答えは帯に書いてあります。

「竜殺しの娘として生まれ、竜の娘として人を憎んだ。」

竜殺しの娘であり、竜の娘でもある。まさに、相反する概念がブリュンヒルドの中で両立しています。

そしてこれは、ブリュンヒルドの体にも表れています。人間でありながら、腕は竜のそれです。人間の体であり、竜の体でもあるのです。

さて、相反する概念の両立というモチーフが『竜殺しのブリュンヒルド』に見られることはわかりました。それでは、狂気の方はどうでしょうか?

自分は、『竜殺しのブリュンヒルド』に『さよ教』や『歯車』ほどの豊饒な狂気を見ることはできませんでした。もちろん、愛する竜を食すというのは狂気的ですが、それは一つの歪んだ愛情表現……もしくはエゴイズムの発露であり、どこか了解可能の範疇の行為だと思えてしまいます。

代わりに、『竜殺しのブリュンヒルド』には『さよ教』に見られたもう一つのモチーフである「黄昏」を発見することができました。だからこそ、電撃小説大賞投稿時には『黄昏(たそがれ)のブリュンヒルド』というタイトルだったのだと思っています。しかしこれは、どういうことか?

『さよ教』の舞台がずっと夕暮れ時=黄昏時であるのは、主人公の人見広介が「自分は誰であるのか」=「誰そ彼」という問いに執着しているからだと考えられます。人見が「意味」に固執するのもそれが理由です。
これに関しては、以下の小論が参考になると思います。

「自分は誰であるのか」という問いは「いかに生きるべきか」という問いと関わっています。だからこそ、「誰そ彼」の問いを抱く人見広介は教育実習生やインターン生といった職業にまつわる意味を自身に仮構するわけです。

それでは、ブリュンヒルドはどうでしょうか。ブリュンヒルドは竜を殺したシギベルトに復讐することを欲しています。そこでは彼女の生きる指針は明確です。しかし、それは物語の最後まで揺らがないわけではありません。主にシグルズとの交流によって、それは揺らぎます。

一番揺らぐのは、第三章の終盤でシグルズと話すシーンでしょう。そこでブリュンヒルドは、シグルズと共に生きるべきか葛藤します。この葛藤の発生には、ブリュンヒルドの中で相反する概念が両立していることが関係していると見ていいでしょう。「竜殺し(人間)の娘でありながら竜の娘でもある」という矛盾は、「自分はどちらの存在として生きるべきか――人間として皆と共存して生きるか、それとも竜の娘として復讐を選ぶか」という問いが生まれる契機となるからです。この点について、もう少し深堀りしましょう。

少しページが戻りますが、自分の腕が日に日に人間のそれになっていっていることをブリュンヒルドが告白するシーンがあります。その次に、狼に育てられた少女の話が出ます。狼に育てられた少女は猟師に打ち殺された狼を忘れ、人間に帰化していく。強い思いも風化し崩れることは避けられないとブリュンヒルドは言うわけです。ここで、「ブリュンヒルドの腕が人間のそれになっていること」と「育ての親への思いが風化し、人間に帰化すること」を重ねて読むことは、あながち牽強付会でもないと思います。

「ブリュンヒルドの腕が人間のそれになっていること」と「育ての親への思いが風化し、人間に帰化すること」が重ねられているのだとしたら、ブリュンヒルドの体が完全に人間のそれになった時、ブリュンヒルドの竜への思いも風化し、彼女は人間に帰化します。つまり、ブリュンヒルドの体に存在する相反する概念の両立(人間の体であり、竜の体でもあるという事実)が消えてしまえば、ブリュンヒルドは「自分はどちらの存在として生きるべきか」という問い自体を立てられなくなるわけです。

もしかしたらこれは極端な読解かもしれませんが、自分にはどうしてもこのように読めてしまいました。

ブリュンヒルドの腕が完全に人間のそれになる時、ブリュンヒルドにとっての「どちらの存在として生きるべきか」という「誰そ彼」=「黄昏」は終わりを迎えます。『さよ教』とは違い、ブリュンヒルドの黄昏時は永遠ではありません。

それは、有限の黄昏時なのです。

【ヒューマニズムとの決別】


有限の黄昏時を生きるブリュンヒルドは、果たしてどのような決断をしたのか? その答えが如実に表れている一文を引用します。

「少女は機能すべき形へと戻る。」(234頁、6行目)

この文章を丁寧に分析していきましょう。「少女」とはブリュンヒルドのことです。その次の「機能すべき形」は、考察の余地があります。「機能」とは、果たして何なのか? その言葉はどのような意味を持っているのか?

あらゆる道具は機能を持って生まれてきます。ペーパーナイフならば紙を切る機能を、ハンガーならば服をかける機能などを持っているわけです。それらは自身が持つ機能を全うすることが全てであり、「自分はいかに生きるべきか」といった問いを持つことはありません。一つの機能をただ全うするだけです。その時、道具は手段として使用されます。ハンガーは服をかける手段として使用されるわけです。

しかし人間は違います。人間は手段ではないですし、手段であるべきではありません。人間はただ一つの機能をただ全うしていればいいというものではなく、常に葛藤し、悩み、格闘します。そして自身の意味や価値を実存的に獲得していくわけです。

ここまで書くと、「機能すべき形」という表現がいかにヒューマニズムと対極にあるかわかるかと思います。

それでは、ブリュンヒルドの機能とは何なのか? 言うまでもなく、竜を殺したシギベルトに復讐をすることです。

元々ブリュンヒルドはシギベルトを殺害しようと思っており、それだけしか考えていませんでしたが、シグルズと出会いそれが揺らいでいました。つまり「誰そ彼」の問いを抱いていたわけですが、ここでブリュンヒルドが「機能すべき形に戻る」ことによって、彼女の黄昏時は終わったわけです。

こうしてブリュンヒルドは人間であることを捨てました――二重の意味で。人間として生きることをやめ、同時に人間性を捨てて復讐という機能を果たす存在へとなりました。

しかし、シギベルトへの復讐の背景には、竜への愛があったことを記さなければなりません。

――愛が、二人を引き裂いた。

この作品のキャッチコピーですが、愛が引き裂いたのはそれだけではありません。

愛は、ブリュンヒルドと人間性をも引き裂いたのです。

【終わりに】

傑作に出会うたびに思うのですが、傑作は細部のいたるところに神を宿しています。その神はほのかに、しかし確かに光っています。

その光の数々を明示して一つの星座を作り出すのが、読者の役割だと信じています。読者の数だけ星座はある。それは確かです。ただし、それは語られなければわかりません。だからこの文章を書きました。思わず書いてしまった、と言った方が正しいかもしれませんが。

この文章が導き出した星座が絶対に正しいとは、口が裂けても言えません。読解はところどころ強引ですし、論理も稚拙な部分があるかもしれません。だから自分が望むのは、もっと綺麗な星座を見たいということだけです。それをただ期待したいと思います。

それでは。

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