あそぼうirlnの森第3回

本来はスペースにてお話したいと思っていたのですが、どうにも私は口下手であるため、文字にて綴ることといたしました。

せっかくですから、私も先の二人に倣って、来歴を少しお話しして、あとは投稿した作品からいくつかのお話、最後にちょっとした御礼のお話をできればと思います。

1.来歴

当時、私は魔法少女まどか☆マギカのファンでした。リアタイでハマり、叛逆の物語は学生ながらたくさん通ったことを覚えています。

そのため必然的に、マギアレコードに関しても事前登録の頃から心待ちにしていた人間の一人でした。

そのような経緯もあり、ゲーム自体はリリース直後から遊んでいました。はじめての星4魔法少女の五十鈴れんちゃんが当たったのは、一ヶ月ほど経ったころでしょうか。
当時の私は同性愛の概念がとても好きなオタクでしたので、正直、この作品もそういう目線で見ていたことがありました。
いろやち、りかれん、さないろ・・・当時の私はおそらく、このあたりが好きであったような気がします。

そんな私ですが、鷲尾須美は勇者である。という作品に出会うことを境目に、原作に準じた距離感であったり、友愛という概念を好きになるという変化がありました。それは現在の私にもかなりの影響を与えています。

ともかく、それがいろレナの関係を好きになるための土壌ができた瞬間でした。

話はマギアレコードに戻りまして、私が水波レナを好きになったのは、彼女の魔法少女ストーリーがきっかけであったかなと思います。自分を嫌いとする彼女に感情移入していたのでしょう。当時の私は、無自覚にも心が荒れていたのかもしれません。ともかく、それをきっかけに私は彼女について考える時間が多くなりました。『いつか好きになれたなら』には、当時に水波レナについて考えたことをこれでもいうくらい詰め込んでいます。(上記作品投稿後実装された水波レナのメモリアに、作品内と同じ内容のテキストがあったのは、すごく嬉しかった記憶があります)

そんないろレナ最初の作品の生まれたきっかけは、上記記載の考える時間が増えた、ということに加えて、第一部七章の二人のクラス内のやりとりがやはり大きいでしょうか。それが正しいかは別としても、あの教室の一幕で二人がいわゆる百合要素のない純粋な友情関係であるのだと感じたのでしょう。百合要素の混じりが覗ける人間関係の多い環いろはの周囲で、それはどこか特別に見えたのかもしれません。


2.作品のさまざま

『いつか好きになれたなら』
この作品は、水波レナのことが書きたかったお話です。
私個人の解釈として、水波レナは自分のことが嫌いと言っているけど、それほど自己否定ばかりが強いキャラだと思えなかったところがありました。魔法少女ストーリーの頃の彼女は、そんなことなかったのでしょうが、現在の彼女は違うと思ったのです。
自分を愛すること、他人に愛されることを知らなかった彼女が、今はもう他人に愛されることを知っています。それに応えられない自分のことは呪ってるでしょうが、その呪いは、決して自己否定だけで構成されてはないと思ったのです。きっと、変わりたいと思う強さがあるのではないかと。

しかし、かえでちゃんやももこちゃんにそれを吐露するのは少し違うな、とも思いました。彼女らは現在の水波レナを受け入れていて、レナもそれに甘えている関係だと思ったからです。だから、それを受け止めるのはきっと彼女たちではないのかな、と。

それなら、環いろはならどうだろう、と思いました。
きっかけはそれこそ上記に記載してる教室での一幕で感じた二人の関係ではあったのですが、二人について考えてみると、

流行に疎いいろはに、敏感なレナ。
待ち合わせの時間には二人とも間に合いそうだけど、あ、レナちゃんそわそわしてやたらに早く着いてそうだな、といった具合に、さまざま浮かんできたのです。
そうして生まれたのが、この作品であったりします。

そのため存外、「なんでかわからないけど、いろはだからかな」という台詞には、私の想いも少し混じっていたりします。

『よるのそら』
もともとこのお話は、構想すらありませんでした。
いろレナ自体のウケもそこまでよくなく、一作目に特に感想もなかったので、私の自己満足で済ませていたからです。
しかし、一年と少し経った頃、唐突に感想をいただけたのです。
その方は私がTwitterの非公開リストで拝見していた方であり、絵を描かれている方でした。そのため正直、かなり驚きつつも嬉しかったことを今も覚えています。そのためこの作品は、その人のために書いたといっても過言でない、そんな一作でした。

私個人の想いとして、水波レナにもっと他人の世界を知ってほしい、というものがありました。他人と関わるなかで、新しい好きを知ってほしい。
それはちょうど、当時私が見ていた「キラッとプリ☆チャン」という作品内にあった「友達って作らなくちゃいけないの?」という問いに対する「作らなきゃいけないわけじゃないけど、新しい大好きが見つかるかもしれないよ?」という優しい答えに強く打たれたからこそ生まれたテーマでもありました。

黒いと想っていた夜空に、少しの色彩をくれる人がいた。

世界は他人と共有してこそ広がります。
友達のいない彼女らだからこそ、そういう関係になってくれたならと思ったのかもしれません。

さて、投稿した『よるのそら』は、二人が公園で星空を眺めながら、お互いの世界を共有して、分かち合い、自分の世界の色彩が少しだけ豊かになる、そういうお話でした。
けれど最初の構想は、二人で田舎に旅行して、田舎の公園で星空を眺める、というものでした。私自身田舎に住んでいたため、都会の夜はきっと星が見えないと思っていたのです。けれどあるとき、たまたま街中で空を見上げてみると、星はきちんとそこにありました。
案外街中でも、星はよく見えるものです。

『思い出を託して』『居場所のないモノ』
これらの作品は、わかりやすく『記憶』と『居場所』というテーマを二人に落とし込んだらどんなお話ができあがるか、という書き方をして、私が日常で抱えていたテーマを、二人に託したと言えるような気がします。
『思い出を託して』最後の締め方は個人的にとてもお気に入りです。

『眉唾物の想いは、けれど美しい』
この作品はちょうど、『いつか好きになれたなら』と『よるのそら』踏襲した作品でありました。この二作にこめたテーマを、別の視点から描いたようなイメージになるのかもしれません。この作品の肝は、レナちゃんが最後に「かえでにも謝らなきゃ」と言うところです。水波レナがかえでちゃんに謝るときは、彼女の精一杯の素直を出している時なのだと思っています。ツンツンとした態度が原因で喧嘩して、それを省みるからこそ、謝る時は出来る限り素直になる。そういうイメージです。

また、私の作品内では、環いろはを相手にした時にレナは少しだけ素直になることができる、という描き方をしています。そんな環いろはを通して、誰かに優しくする強さを知ったレナは、いろはに優しくありたい、と思います。
しかし、それは決して、環いろはにだけ向けたいようなものではありません。優しくなることは、今のレナから変わることと同義です。そのため、いろはに優しくしたいように、かえでにも、ももこにも。
だから、レナは「いろはのことくらいなら助けてあげる」としつつも、かえでにも謝らなくちゃと思うのです。いろはにもらった優しさや強さを、他の人にも向けていきたい。水波レナの変わりたいという願いが、こうして叶っていけばいいなと思います。

『それはあまりに小さくて』『線香花火』
こちらに二つは掌編として書いてます。何気ない一コマを切り取るイメージで、だけど二人の関係を描くような、そんなお話になっています。

土砂降りの雨の中、傘に二人は入らなくて、二人は肩を濡らす。二人は入らない傘であったからこそ、夏の雨に少しだけ不思議を感じて、濡れないようにと距離を詰めれば、また新しい発見がある。入らない傘に無理矢理入らなければ知らなかった相手の一面がある。小さな気づきではありましたが、その経緯が少し特別であると、その気づきにはどのような意味が与えられるでしょうか。

線香花火のお話は、コメントくれた方への返信でも語りましたが、永遠なんてないと思っているからこそ、永遠性を感じさせてくれるものに永遠を夢見る環いろはと、逆に、永遠性をのものを否定するレナ。どちらもその本質は同じで、ただ少しでも長く続いてほしいだけ、というお話です。考え方や想いは違っても、その根底にあるものは変わらなかったりすることもあるのではないでしょうか。ちなみに、こだわりというわけでもないですが、線香花火という単語は文中に一度も出していなかったりします。

『待ち人に寄り添い』
このお話のコンセプトは「一日の中の二人」というなんとも中身のないものでした。lihoさんの『二人ぼっちの昼休み』や『薄紅の蝶と海を征く』『祈りを抱いて眠る夜は』などの連作物に憧れて挑戦した、という経緯があるのですが、どうにも長編は不慣れでもあったため、内容はかなり手探りであったことを覚えています。そのため、書き初めの頃に想定していたものではなくなっていたりします。
作品名「待ち人に寄り添い」はもともと、は、レナの世界であった屋上に環いろはがいつの間にか居座っている、という二人の関係を軸に、屋上の待ち人(レナ)のもとにいろはが来ること(寄り添うこと)=現在の二人ではないか、というイメージで考えたものでした。
作品の内容も、
’’二人で屋上にいるのに、なにか口約束があるあけではない。昼休みの皮切りの後、準備の遅い環いろはは、いつだって彼女よりもたついてしまう。それでも、遅れて行った先に必ず彼女はいて、いろはを待っていてくれる’’
というのを、待ってもらっているいろはと、来てくれているレナという二人の視点で書こう、というものを想像した時期もありました。

もちろん上記内容は最終的な内容のベースにはなっていますが、もうちょっと踏み込んだ内容になっているのは、どこか私のエゴがあるのでしょう。

最終的に屋上を出た彼女らには、もう関係を担保してくれるナニカがあるわけではありません。お互いが屋上を居場所としていた頃のようなカタチのある関係ではないためです。
お互いの居場所を互いに作り、寄り添い合う。
それはきっと、屋上を共有していた頃の関係より脆いことでしょう。
その脆い関係には名前すらもなく、それでもこうして隣り合って、明日の話をしている────。
カタチなんてなくても、その日に明日の話をして、明日になれば明後日の話をする。そうした少しの積み重ねを紡いでいく関係が、私の出した二人への想いなのかもしれません。

これは今回初めてお話する内容ですが、待ち人に寄り添いの構成が
朝・昼・夕方で構成されてるのは、lihoさんの
『マイディアスターゲイザー』『おやすみスターライト』『朝焼けの残月をきみへ』へのちょっとしたリスペクトや憧れがあったりもします。

この場をお借りして一緒によくいろレナの話をしてくれたお二人に感謝します。いろいろお話してくださり、ありがとうございます。

とろととさんには、まず感想をくれた御礼が一番にあがります。あれがなかったら、私は最初の作品で書くのを終えてたと思います。それはどうにも、なかなか怖くてたまりません。作品についてもいつも読んで感想をくれて、いつも元気つけられていました。いろレナちゃんについてもとろととさんの考えられてるお話の案は、どれも私には浮かばないもので、勝手ながら先日のスペースでお話いただいたことにも刺激をいただきました。
『コーラルの瞳』のタイトルも内容も好きです。いろはちゃん視点の解釈のお話また見れたら嬉しいです。いろはちゃん視点はとろととさんしか勝たんです。

lihoさんにはさまざまな刺激をよくいただきました。この一連の文章のある箇所にもlihoさんの文章を勝手に少し引用しています。ごめんなさい。なにからなにまで、もろもろありがとうございます。
私が『よるのそら』を投稿して、アニメ一期がある程度進んだ頃でしょうか。何気なく支部のいろレナタグを見たら、まぁ文章が素敵な方が書いてまして、おったまげた記憶があります。正直な話、「こりゃ私は隠居だ……」とも思いました。あの衝撃はなかなか忘れられません。どの作品も素敵で、文章など勝手に参考にしていました。いろレナを好きでいれたのは、一緒に耕してくれたlihoさんあってのものです。ありがとうございます。『おやすみスターライト』今でも一番大好きです。どの作品も好きですが、これを読んだときの気持ちは何事にも代え難いです。

さて、私はというと、『待ち人に寄り添い』は書き直したいですし、ネタ出しで終わっているプロットも複数あります。なんなら、書きかけのものも・・・。
そのため、別にいろレナを離れるわけではありませんが、現在の私の頭の中を整理する意味でも、こうした自分語りの激しい文章を書きました。

まだまだ書きたいことはありますが、それでダレてしまうのも心外ですので、これにて。

いつかお二人の作品への感想をひたすら話す機会を設けたらとしたいですね。

さて、初投稿から約3年間ほどでしょうか。これだけの作品数をだしたのですから、私もそのうち、紙の本を出してみたいですね。

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