見出し画像

いちばんすきな花がすきな友人たち

3人でよく集まる2人の友人は、ドラマが好きだ。
彼女たちは何をとっても好みや考え方がとてもよく似ていて、私は1人だけ全く違う。2人とは夫同士の仲が良い、という繋がりから始まった友人で、カップル同士から家族ぐるみの付き合いになってとうとう女子だけで集まるようになった関係だ。
2人は韓流、サブスク限定、恋愛ドキュメンタリー、ドラマ、なんでも見て、好みが似ているので延々盛り上がっている。(私は岡田斗司夫と中田敦彦とバイエンスの動画を見るのが大好きで全然分かり合えない。でも全然平気。)そして今期のドラマは『いちばんすきな花』が面白いらしい。

2人がしきりに私にもみてほしいというので、見た。
面白いとは思ったけれど、心は動かなかった。面白いといっても、この話が好きとか次が気になるとかではなく、漠然と興味深いなと思う感じだった。
2話目も途中で見るのをやめてしまったくらいなのに、なんとなくこのドラマのことを考えている時間が多くて、不思議だった。これが面白いということなのか?と思っていた。

今日、このもやっとした印象深さが晴れた。
私はこのドラマに散りばめられた、多くの人が感じたことのある気持ちを言語化してまとめたような言葉に違和感があったのだ。例えば“個の価値は2人の時が1番高い。3人以上は個の集まりでしかない”とか、“2人から1人いなくなって1人残った時、元々1人の時より弱くなる”とか。
その言葉が良い悪いではなくて、私はきっと、自分でその言葉に辿り着きたいと言う思いが強い。漠然とした思いを自分で言葉にした時、気持ちも言葉も確実に自分のものになると思うのだ。
出来上がった言葉を聞いて“これが私の思いだ”と思うのは、先入観を持たされるというか、言葉に自分が寄せられていくような怖さを感じてしまう。

これが分かるきっかけになったのは、今日家族同士で集まった時の会話だった。
もうすぐ臨月の初産の友人が「臨月に入ると出産の不安が募る」と言ったのに対して、その夫が「いやぁ、頑張って!よろしく!」と言い、妊婦の友人の釈然としない顔を見て私が「こういうときは感謝一択よ、妊婦にありがとう言えるのは旦那だけなんだよ。私たちはおめでとうしか言えないから」と言ったのだ。友人はその言葉を聞いて「もうほんと、(私)とちょっとしっかり話して色々聞いてきて」と言っていた。
その時“自分の気持ちをなぜ人に言ってもらおうとするんだ?”という純粋な疑問がふっと浮かび、自分との違いから先程のドラマの違和感への結論が出た。

そして私は、メディアが超絶発達が、気持ちの言語化能力が低くしているのではと思った。出来上がった言葉を大量に取り込んで、色々知り、感じているような気になるけれど、自分の言葉を組み立てて表現する力が衰えているような気がしている。
本や会話は言葉しか伝えるツールがないから大量の言葉と出会う。これらを拾って集めてためておき、自分で組み立てて考えるのは例えて言うならレゴだ。パーツが細かいほど表現の自由度も上がるし再現性も上がる。でも創り上げるのは難しいし、たくさんのパーツが必要になる。
メディアは映像が伴うから、言葉になるのは台詞と作者が本当に伝えたいメッセージだけで、出会う言葉が少ない。それらの言葉を丸ごと飲み込んで、自分の体験に当てはめていくのは、粘土の型抜きみたいな感じだ。気持ちに近い形で抜くと“だいたい自分の気持ち”という作品が出来上がるので、作るのは簡単だし速い。でも、ちょっと違う時に修正は難しい。

この力が大事かどうかは置いておいて、私は自分で考えて、かちゃかちゃっと考えがまとまる瞬間が好きだ。
いちばんすきな花が取り上げている“二人組”や“隠れた孤独感”みたいなものに対しても、また自分なりに考えてみたいなと思う。

夜中に急に考えがまとまって書いていて眠いので寝る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?