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林やはの第一詩集『春はひかり』を読んで書いた長すぎるコメント

長文

A 網−膜、肉体=膜、義務教育「羊水の詩」(世界)から「きみ、誕生」(からだ)へ、「這う」(あるからだ)までにある痣、原因。「ピュア」の膜。
B 心身二元論、意志。自殺。論理、納得。「マーチ」「踊りの詩」
C 肉体/精神から、骨抜きの肉体=膜「骨格の詩」「幽けき骨」
D 骨無=膜、断層、歴史「浸透の詩」
E 海=断層「あいなめ」
F 地理学=別の環境、起源なし、彗星なし「刃物の詩」「ルア・ルアーナ」「消化の詩」
G 四季の春、春の四季、起源破壊「月経の詩」「リンネ」
H 神/神に近いもの、獰猛「羊水の春」
I 海、腐敗した肉体=膜、魚(しろい目、獰猛)とケリをつけるために「いきるもの」
J 詩の技術、吐瀉=黒い血=獰猛「えずくもの」
K 詩の技術②、箱的なもの「浸透する」「浴後の詩」
L 野次馬の卑しさ「火事の詩」、肉体の影=膜「反映」
M 別の世界のほんとうといつわりを見つめる、黒い血・しろい目≠くらい海・しろい視界「めざめ」

A 世界にあるからだ

「いちばんあたたかいところは、なにもかもの、なかだ。世界、というものだ。」
(「羊水の詩」部分)
 世界の数ある定義の一つとして、林は、いちばんあたたかいところを提出する。既に定義済みの世界の、既に定義済みの語を引用しながら、この世界そのものを寿ぐこと。あるいは、このような引用を行いつつ、別の世界を定義していくこと。いずれも、詩人の行いだろう。
 林の詩における語は、こう言ってよければ、易しい。義務教育に向くだろう。中学生の国語の教科書に採用されていてもおかしくない。ある程度まで、するりと読めるだろう。神、海、森、光、春といった、手垢のついた(すなわち、引用されすぎた)語が頻出する。こうした語が喚起するイメージに身を任せると、この詩集はするりと読めてしまう。だが、林の詩は、よく読むと、どうやらこうした語のやさしさをカモフラージュにして、別の世界を上昇させようとしているように思える。我々はそれを掬いとろう。

「ゆっくり、まわれ、/どこにでもいるから、きみは尊い、酸素がなくなっても、呂律はしっかりしている、」
(「きみ、誕生」部分)

 「羊水の詩」の次頁に並べられた詩で、本詩集において主役に近い「きみ」が誕生するさまが描かれる。理科の課程で習うであろう〈酸素〉が引用され、ずらされる。〈羊水〉から出てきた「きみ」は、酸素のない世界に誕生する。こう解釈してみよう、「きみ」は理科で習うような酸素があるこの世界に誕生したのだが、この世界には、詩人が考えるような〈酸素〉はないのだ、と。

「(安寧から たどたどしい 足音)、はしれ、はしれ、はしれ、どこかには、/痣ができる」
(「きみ、誕生」部分)
「かさなり、しなやかな髪を、染みこませた、ある体(あるからだ)
……(中略)……
あざの、あるからだ」
(「這う」部分)

 さて、誕生した「きみ」はどうやら、「這う」の詩においては、這うことができる程度には育ったことが伺える。意図的に意味が多重化させられた「あるからだ」。体が在ることが、その体がこの世界を受け取る以上、この世界の原因そのものになってしまうような不条理。すなわち、〈体があるから、体である〉と表現できるような、原因と誕生(により生まれた体)の一体化についてが言われている。体それ自体が、この世界の理由そのものとなり、そして痣を負う(無論、水沢なお「うつくしいからだよ」における修辞と似たところがあるだろう)。とはいえ、まだ、「母が幼い我が子が這い這いをしながら、どこかをぶつけて痣を作っている様子を寿いでいる」といったするりとした読解もあり得る。
 
「やさしい他人とぼくの体には、膜がある、はげしく抱擁しても傷つかない、膜、ぼくは、どうかしてしまうということ、そして、それがどれほど悲惨でも、至福だ、ということ、を、察している、」
「だいじょうぶだよ、と、いわれたよね、そのこえの膜、すべてむいみだという、至福の極限、いま、死が訪れても、やさしさで受けいれる、かすんでいる、網膜」
(「ピュア」部分

 「ピュア」においては、端的に、かつ最も詳らかに〈膜〉が開示される。我々はこの〈膜〉を鍵語として扱う。本詩集における主役らは、それが「やさしい他人」にせよ、「ぼく」(=「きみ」、おそらく)にせよ、膜がある。膜は悲惨であり、あるいは至福の極限であり、「やさしさ」の因果のうちでは、死に近い。

 

1.刃物の詩

 「刃物」は、膜を切り裂くものであって、箱を切り裂くものではない。箱は切り裂かれるものではない。
 ただし、刃物との語はそのまま用いられることはなく、〈きみにどんなに、やさしくふれても、膜がやぶれることはなくて、鋭利で、ぼくは、かたまり〉に見られる程度。この一文は恐るべき矛盾がある。やさしくふれればふれるほど、膜がやぶれることはないのだ。転じて、やさしくない仕方でふれたら当然に、膜はやぶれない。すなわち、やさしくなければ、〈鋭利〉な〈きみ〉は、(ぼくという)膜をやぶることはない。

2.ルア・ルアーナ

 保留

3.熱の詩

 〈わたしたちは、肉体におびえて、生きている〉、〈生命なしで、ひとは、   生きている、〉などと。

4.爪

 爪に見られる硬い雰囲気は、膜かそうでないか、そのあわいにある。爪は膜をやぶりうるだろう。
 〈美しいものの定義〉や、〈と、云うときほど、美的意識はだれのものにもならないでほしいよ、それは、だれしも完全体ではなにということで、しかし肯定せざるを得ないこともあるけれど、〉。この硬さは、数学ほど硬い論理ではなく、説得の論理に関わる。
 不当な演繹は、納得の問題である。この詩集がこのような硬さを見せるときはしばしば、納得、説得、弁論に関わっている。

5.マーチ

 〈語らないといけない〉という、素直な頭の高さに驚く。このソフィストの弁論において、〈すべての偽りのこと、〉は、説得と納得のレトリックに関わる。
 パレードは、「踊りの詩」とつながるだろうか。パレードにおいては、自殺を考えうるというのが肝かと思われる(そしてこの自殺が、変身ないし分身、ないしユビキタスに融けることに向かうのかについてよく考えなければならない)。
 〈ぼくの熟れたところから、聖域に達したきみが、分泌させる、そんな神聖なことを、きっと性愛だといって、おわらせてしまう〉。
 

6.月経の詩

 どうでもいい感想→少し海辺のカフカ的な響がある。
〈深層世界には、ただ澄んでいるものたちがあり、いつも、水と同化しようとしている。〉
〈(波、)波より、潮流を望んでも、それは私のものにはならないと悟り、ただ私は、いつしか海になる。〉
 〈だから、(波、)波なのだから、あなたは待っている。そして海になる。わたしは海になる。〉
……()は補足なのだから無視するという流儀に従って、波なのだから→あなたは待っている、というそれにしてもよくわからない論理を見る。それとも大真面目に、(波、)波→あなたは待っている、と読んだらどうか。こうしないと、〈深層世界〉も〈耳なりの静寂〉もどこかへ消えてしまうのではないか。耳鳴りと、耳には耳なりのと、に誤読して、瞳なり/瞳鳴りの静寂というものがありうるのではないか。
(波、)波という押し寄せる力に対立させられるような潮流は、月と地球、そして月経という実際の人間に起こる避け難いものである。月経は、腐敗していない肉体、いらないと感じるこの肉体に、潮流として起こるものである。太陽、地球、月の三つ巴があり、四季というある環境、ある取り囲みが決定され、このリズムに肉体は従わざるをえない。太陽、地球、月のどうしようもない現実、その具現化である四季を、いかにずらせるのだろうか。別の環境で、別の取り囲みで。別の歴史をつくりあげ、それが歴史=史実となるように、史料として発見させること。

7.羊水の詩

 〈いちばんあたたかいところは、なにもかもの、なかだ。世界、というものだ。〉などと。私は世界の必然だと思った.でないと私は可滅にはならないのだから.

8.きみ、誕生

 〈ゆっくり、まわれ、〉〈はしれ、はしれ、はしれ、どこかには、/痣ができる〉
羊水の詩で酸素がなくなり(酸素がなくても生きられた場所から落とされて)、酸素がなくなった場所にくることになったきみ。これこそがおそろしい、本詩集における事実だ。きみが誕生した場所は、〈酸素〉がない。実際の我々は、もうこの時点で、実際の我々の、読む存在、この実際の世界のイメージをずらすことを余儀なくされる。

9.ピュア

 ここでは、まさに切迫した納得の問題だと思われる偽りが、〈あいまいな偽、あいまいな真〉と強く打ち出されている。偽りはやはり納得であり、偽りとは、論理が偽であるため真でないというようなあの数学的操作ではなく、やはり納得なのだということを言っている。
 さらに、〈膜〉が最も詳にされるのはこの詩においてである。理科的な事実へのめくばせを忘れないのはなんなのだろうか。もし仮に世界が真空であったならば、膜ははじけてしまうだろうという理科的な事実に目をそらさないからこそ、この詩はわれわれにイマージュをあたえつつ、イマージュなき思考に、稀な納得をさせてくる。

10.浸透の詩

 とてつもないことを言っている。統計される存在。ここでは、レトリックではなく、むしろ"硬い"論理が書かれている。〈よって〉。断層。統計。おそろしい考古学のことを言っている。わすれられる。悲しい、もっとも悲しい詩だ
 断層との語。断層という現象そのものを言っているというよりも、地層が目に見えるようになることを言っている。正確には、〈君〉はまず地層になる。〈あの、わすれられる、森で〉という締めくくりにおいて、最後には忘れられてしまうことを言っているのではなく、忘れられたものが発見されることを言っているのだ。誰に?読者に。

11.貫く

膜を破りうる貫き、〈剣〉。この詩は私が道筋にする膜の読解では手に負えない。

12.羊水の春

〈ひとみに、羊水みたいな、すいぶんだ〉
〈きみ〉は、〈かみさまに、ちかかった、獰猛なものたちが、きみのあしに、すりよって、たまに、噛みつき、きみは、血をながす。〉。「たまに」という頻度が、この一方で獣や獰猛とまでいわれたものたちの力を脱臼させている。笑えるポイントだと思う。ともすれば、神聖なもののずらし。
楽園へ、ゆこうとする、かわいらしさで、死ねないよ、どこまでも、つながってゆく、君も、獰猛になりなさい。
詩人はかみさまではない。だから、〈だれにも触れられない、そんなこと、神様ではないのだから、しな、〉「貫く」、触れはしない。ただし、詩人はきみにこえをかける。獰猛=かみさまに近いものたち、になりなさい、と。近いものたちであって、神様ではない。史実になるのだ。

13.お産の詩

保留

14.踊りの詩

 最も力強い。〈踊りは、なぐさめだ、〉
 〈踊るときですら、肉体には、なにも宿らない、〉ここで、精神と肉体の古典的な二元論が繰り広げられていることは確かなのだが、次の最後の一節は大変興味深い。〈ふいに、/踊りだすひとが、いる、狂って、発された、たましいみたいだ、そして、わたしと、似た、尊いものだ、あなた、とても、美しいよ、敬いあおう〉
 肉体/精神のデカルト的な二元論(欺く神ではない)
 
 踊りは、生きている、と「決定」する行為である。宗教がないところで。
 〈肉体がある、そういうことにすると〉=宗教がある場合は、〈踊りは、なぐさめ〉でしかなくなってしまう。
 ふいに踊りだすとは、生きている、とけっていする瞬間なのだ。

15.反映

〈光ではなく、光りとして現れる。〈夜の、鉄筋、(ぼやけたところも、掬いとれずに、)/崩落させたい、光りと炎の、隔たりを
 光、ではなく光り。名詞ではなく動詞であるようなもの。それは未だ、〈炎〉と隔たりがあるのだと翻って言われている。
 〈光りには、意味がある、/炎がある、/燃焼で、心臓を、/破れ、 宵の、/あいまいさと、/破壊〉
 光りは膜を燃焼しうる。われわれの読解では、心臓を膜と理解する。
 この燃焼のイメージは理科における基礎的なもので、灰になってなくなってしまうような、酸素がある現実のこの世界のことを言っている。この点については、林やははまったく幻想的ではない。
 〈光り、炎を燃やして、とち狂っている。あんしん、した、〉
 光り=炎は、狂うことであり、炎は、膜を燃焼し、肺にするものである。すると、狂うこととは、この糖度を持つ肉体を、膜を燃やし尽くしてしまうことである。
 隔たり、光りと炎の間にある隔たりは、だから、膜なのだ。

16.這う

〈ある体(あるからだ)〉
体が在ることが、ある世界の原因の理由になってしまうようなこと。体があり、世界が産まれ、その体自体がそのものの起点になってしまうようなこの不条理を端的に言い表している。誕生した君は、〈あざの、あるからだ〉。神様ではないのだから、触れられない、このあざのあるからだ。こうして、痣のある肉体自体は、この世界の理由そのものに上昇される。

17.仰ぐ

 天から降る光と、焚き火の〈光り〉を区別する必要がある。天からの光に照らされたものは、肉体なのだ。
〈ぼくの指の、折れて、肉がよってところに、かげができる。光が、さえぎられているのだ、(もはや、さえぎっている、)そこは、天からは、みえない、神には、みえない。神には、みえないのだ。わかるか?〉
もはや、さえぎっている、という決定がある。(これは、生きている、と決定する意志である。〈わかるか?〉と荒々しく訊く力が、この詩から感じられる。肉体のなかによったところに、しわに、隠れた肉体=膜がある。
※この詩においては、〈いまや、海すら、享けていない〉

18.幽けき骨

〈海から産まれた万物だとして、すべてを愛せるものがあるとするなら、それは神か、もしくは、ひと。〉
→これまで出てきたいくつかの海のイメージとどう重なるか。神、または、ひと。ひとを選ぶ。
 〈脊椎のまんなかから、わたしは這いでて、生命の脆さを、史上に加えたい、〉
 ・「這う」の詩とどう重なるか。
 驚くべきことに、脊椎のまんなかまで膜なのだ。膜のまま這い出て、それでも、史上に残ろうとする。土になるか、骨は折れ、溶けたにもかかわらず、まだ断層となろうとするか!
 〈わたしは、いつまでも、あなたの、骨〉
 そうして、骨は幽けきものとなる。というか、これにて、肉体=膜/骨、との対立ではなく、骨から這い出た膜=幽けき骨となる。膜は、我々の背骨ではないのだ、だって、背骨は幽けき骨ではないでしょう。

19.あいなめ

「魚みたいで、海にも春があり、魚卵で窒息する、
水面がやわらかい、まぶたに似てしまった、ふくよかなら大漁で、粘りけのある液体が、指につく、死骸が、海底に沈んでいる、匂いはしない、」

水面は、まぶた=膜を覆うものに似ている。水面が覆う、最も深い部分である海底には、匂いのしない死骸が沈んで、在る。
海は、腐敗した肉体をそれでも保存しておく場所である。網膜は、腐敗した肉体に対応することになる。

20.リンネ

 「拒絶されて、四季のなかに、いきたい、春を掬い上げ、美で悩んでいる。あなたは、すききらいがある。土には、還らない、海にゆくのです、」

 「春のなかに、四季があり、四季のなかに、春があるのではない、」

 のであるから、四季のなかにいくとは、春そのものの、ある環境、ある取り囲みのなかに行くことなのだ。そこでは、土には還らない=発見されざるものにはならずに、海=断層に腐敗しつつも残されるのだ。

21.ヌード・イズム

〈なみだすら器で、〉とは。器は、膜的である、だが燃焼されない。土だ。だが、境のない場所では、なみだはそれ自体でまとまっていることができる。なみだは、それそのものが器となる。情念を包含しているから、なみだが器なのではない。
〈境のないばしょ〉は、膜がないと感じられるばしょのこと。

22.翅音

〈平衡の破れた酸素のある空間に、 あなたが、/いたから、/剥いだ、として/与える、ではないのなら 「身体なんて、」償い?〉

23.骨格の詩

 〈くずれていくのだ、骨格を、わすれられない、からだで。〉
 生物に、なりたい、背骨が偽っている。とめどない血なんてない、と、吐いたときみたいに、偽っていて、吐瀉物に、固形がなくなっていく。

 骨格の詩において、偽っていない生物であろうとする場合、背骨はいらない、ということになる。骨格の抜けた生物、ただの膜が、ただ固形がなくなっていく、液体だけの液ゲロを吐いたからといって、とめどない血なんてない、と、吐いたときみたいに/吐いた君みたいに、偽っているにすぎない。偽った生物から出てくる、液ゲロは、ただ膜らしく見えるだけで、偽っているにすぎない。
 骨が折れて、骨が溶けて、欠陥を患ったところで、まだ、人間のかたちをしている。
 背骨が偽っている、と読んだときに背筋を伸ばす。私は、偽っているのだろうか、このまがっていない背骨のうちで。だが、注意深くならなければならない。理科的にせよ、解剖学的にせよ、実際に私が背骨を持っているこのイメージに同定してはならない。この詩はあまりにもありふれた背骨のイメージをずらしている。事実、骨が折れ、溶けたところで、まだ人間である。この実際の背骨を折り、溶かしたところで、私は人間である。
 〈血が、骨のなかで、熟成され、黒く排出され、生きている。内臓が、くずれていくだけだよ、大丈夫だよ、と、わすれられない、骨格で。〉
 ここでは内臓(=膜)と、背骨(=骨格)とが対立して書かれている。わすれられない骨格は、森で発見されることになるだろう、あの地層が、断層して顕になった場所で。
  
24.浴後の詩

 〈やさしいゆげが、立ちこんで、バスタブでは、春のちょうたちが、戯れている。〉
 〈棺を模して、清潔に、腐敗した、かおりがする。〉
 本詩集でせいぜい「バスタブ」や「棺」が最も硬くありうる。硬さ。構造的、機械的、箱的なもの。ゆげが肉体の掬いとれなかった偽りのない形を模るかのようだ。これにより、バスタブはただの硬い箱ではなく、膜として理解されるようになる。棺という死に近すぎる硬い箱は、まさに清潔に腐敗することにより(むしろ腐敗した肉ことが、本詩集においては最も膜的なものなのだ)、膜として理解される。
 この詩集では、多くの豊かな語の連結、多くの意味の多重化、多くの語義が広く扱いが難しい語の巧妙なずらしが達成されているが、この膜化こそが真骨頂だ。構造、機械、箱を、詩人は巧みにやわらかく変形する花につくりかえてしまう。非常に些細だが、丁寧な技術をこの詩人は有している。

25.えずくより

「 美少女を、専攻している、童貞の血管から、滴り落ち、ぼたぼた、という比喩すらも、いやに快楽的だ、はっ、吐瀉。」
 林の詩には、時にコミカルな語の衝突が見られる。句読は、その息遣いというよりも、この場合、無言のあとに面白いパンチラインを行ってみるような演説における技術のそれのようだ。美少女を専攻している童貞の血管、と結合してみると、この一文の面白さが損なわれてしまうだろう。この面白さにおいておき、本詩集において、吐瀉物は血なのだ。(骨格の詩)に即して言ってしまえば、骨のなかで、熟成された黒い血である。私を膜から別離させ、私に生物を偽っていると言わせ、断層のなかでわすれられないものとなるあの骨のなかで。
 
26.いきるもの

 断層=海にいく以上、この詩人は、魚と決別する。海を自由に動く魚とのケリをつける。
〈鱗が肌になじまない。銀のようだ。しかしほんとうは、光をあつめただけだ、あの、うつくしい鱗は。〉
 〈魚の、しろい目、かがやきは、鋭さであり、儚さであり、どうも現実味をおびないものだ。怪物的でありたいよ、成りえるだろうか、〉
 鋭さ、すなわち膜に牙を向くもの。こうした儚さは、別の世界、別の世界の歴史においては現実味をおびない(この詩集を読む我々がいる実際の世界の現実味ではないことに注意したい)。〈かみさまに、ちかかった、獰猛なものたち〉なのだ、魚の鱗も、しろい目も。しろい目は、視界がしろいわけではないのだ。
 むしろ、断層=海におけるせいぶつは、怪物的なのだ。膜の辿り着く先は、怪物。

27.火事の詩

〈うごめくかげに、いたみはなくて〉
うごめく影は、天のものではない光りによって生じた肉体である。
「踊りの詩」P31に〈いたみはいつも、精神にとっての、みなもとだ〉とある。
うごめくかげに二元論的な精神はなく、たましいが宿売る野次馬の肉体である。
うごめくかげは、だから当然に痛みはない。一方で、尊いか?

28.浸透する

「ディスプレイ、海のあおさを、視界のはずれに凝縮して」
ここで、ディスプレイという硬い語が出てくる。またそのあと、
「潤滑油のお口をふさぐことのできる、栓が、あればいいのに、」
とくる。栓も、硬い。構造的、機械的、箱的。ディスプレイは海のあおさ=網膜のあおさであり、栓とは、まさに膜的なお口を塞ぐ、また別のお口である。

29.消化の詩

「 いつわり、として、星屑だ、それは、星であり、屑。かさかさ、という、おと。生命であるけど、殺してしまっても、いい、そういう、残骸みたいなものが、ある。」
 詩集の最初の詩「刃物の詩」においては、
「波うっていた、ものが、溢れていくのは、うちゅうが、流星群を吐きだしてしまうことと、似ている。」
とした形で星が出てくる。ここでは、流星群。
「ルア・ルアーナ」においては、「星の光があたる、窓辺に、死体はよくあつまる。」「肉体のないしゅんかんが、あの子で、星は、だれでもあった。」
「マーチ」においては、「きみはきみのいのちを軽んじて、次の星を目指している。」
 他にもいくつか「星」という語が出てくる。星屑も流星群もある。ただし、この詩集には、彗星はないのだ。こうは言えないだろうか、すなわち、この詩集に見出されるのは、起源ではなく、ある環境であり、ある取り囲みであり、ある季節であるーすなわち、ある地理である、と。詩人は彗星ではなくなる。必然性、必然たる起源からはじまる歴史(=彗星なる起源ではなく)ではなく、別の歴史を生成させること。本詩集が織りなす地層は、彗星のない、彗星の歴史から引き剥がされた歴史の中で堆積されたものだ。
  

30.めざめ

 〈まぶた くらい海がある〉

まぶた、程度の見渡せる限りの水面=海の表面がある。あるいは、目を閉じたときのように、まぶたに塞がれた網膜=海は暗い。くらい=程度・暗い、という意味の多重化から、本詩集の最後の詩篇ははじまる。
 〈生きていることの、ほころび、まぼろしでいい。〉
 〈春ですね、そのような、しろい、視界。
 いつわりだとしても、視界から、外れることのない世界を、わたしは知らない。あなたも知らない。純粋なのかもしれない。その世界では。〉

 ほころび、まぼろしとは、論理的な水準にはまったく位置していない、故に実のところは”偽り”でない、いつわり=しろい、すなわち、視界が全てしろ=視界から外れるものなし、の世界の出来事である。いつわりだとしても、は、もはやこの世界の、この世界の歴史におけるいつわりではなく、また別の世界、別の世界の歴史におけるまぼろしのことだ。
 めざめないで、この最後の一文を、われわれは、どの世界で、どの歴史で、どの星で、どの春のなかにおける四季で、応答するのだろうか。



…………これらは、2023年3月の頃に書いた、林やは『春はひかり』を読んだ際のメモです。
アルファベットで後から分類を試みました。
数字で全詩にメモを残しましたが、残せなかったものもあります。それは全く読めなかった、というわけではなく、今思えば、統一して読もうとしたから、あるいは私にとってはあたりまえすぎたか書くまでもない感想だったからか、になります。
「」や〈〉は詩集からの引用をあらわしていますが、ページ数もかけていません。むしろ、開けばわかります。また、この揺らぎは書いた日付によって異なり、統一されていません。
まとめるつもりがなくなったので、でしたら、皆さんに任せようと思います。

ササキリ


https://lit.link/yahanoheya

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