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【洋服|宇宙スケール|2000年】付録のような価値しかないと言っている

◯洋服

 冬のアウター。クソどうでもいいもののはずだ。ほんとうにどうでもいいもののはずだ。それに限らず、洋服は本当はどうでもいいはずだ。なのに、洋服の話はしないんだ。はやく洋服の話をして、どうでもいいものだと自然に思いたい。

◯宇宙スケール

 雨が街を、場合によっては世界の至るところを綺麗にしてくれたと皆は言うけれど、それをうまく描写した人はいない。そもそも、その描写をする努力の価値すら発見されていない。直観だけどそう思う。この直観を述べるとき、なんとなく空と便器が繋がる気がする。これが、描写の方針の一つだと考えている。
 雨がどれくらい汚いか、自由落下する水滴がいかに物理的に汚れを落とすか、水がいかに化学的に様々な物質の状態を変えるか、とかいう少し考えればわかるようなややサイエンティフィックな疑問を1つずつ潰していくことには、付録のような価値がある。(付録のような価値しかないと言っている。)
 雨が世界を浄化するというなんとなくはっきりした感じを描写するにあたって、そうしたことは必要なんだけど、でも私は8時間寝なければいけないから、できないかもしれない。もっと飛躍がいるんだろうと思う。繋辞の連続が。私は太陽である、といったようなバカらしさが。だから、立小便は、語られる。すると糞はどうか。植生の話になるわけだ。植生は経済に漸近する。とすると、やはり地球が得られるエネルギーは太陽からで、収支はそこで整っているって話になるわけ。雨が世界を浄化する、と想うとき、世界は概ね地球のスケールで捉えられている。すると、宇宙にひろげて、宇宙の無駄なイメージを絡めていくと(宇宙はいま、より身近になっている)、ああくそったれな方針になってきそうだ、という予想が立つ。地球スケールと宇宙スケールの行き来の制限が雨のおめでたいイメージを考えるうえで、大事になりそうでしょう。この宇宙スケールという言い方は、実際、誤解を与えかねない。スケールは大小の規模を表す言葉なので、よくなかった。宇宙スケールは、むしろ、ある種の考え方の志向性ってわけ。それは、簡単な科学に対応している。付録のような思考。地球スケールは、その近さと辻褄の合わなさ、すでに納得したはずのものの繰り返しの転覆により、表象文化的な思考に属することになる。地球スケール的な言説は、繰り返し転覆される。宇宙は、この繰り返しがあまりなく、むしろ一歩一歩進んでいる。そりゃあそう、だって本当は、宇宙は身近じゃ全然ないんだから。
 地球は身近だから、いま、大きい物語にフィットするものとして、気候変動が台頭しているってのは腑に落ちる。あのさあ、雨がどのあたりから降っているのか、要するに雲の高度がいくつなのかはどうでもいいってわけよ。
 便にまつわる素朴な感想を羅列する。屎尿がどこにいってしまうのか不安が残る。衛生陶器の肌のひろがりに空を重ねることがある。便器は濡れている。尿を出すたびに尿道の壁は少しずつ削れている気がする。便器は吸い込むために吸い込まれそうな形をしている。糞は飛び散る。まっすぐ落ちると快感。トイレットペーパーは便器のなかに相応しくないものだとときどき考えてしまう。便器は肛門を見ている。便器について考えるときと、便所空間について考えるときとの使っている回路の差異がすごい。便は脱線装置だ。話すように書ける。私の息はここまで、今度はせめて背もたれのある椅子が用意された居酒屋で会いましょう。

◯2000年

 いまの貴方に興味がうまくもてないのか、それとも50年前の、500年前の、2000年前の貴方さえ隣人だと思っているのか、不確かな肉体が肩替わりした瞑想がよこした副産物なのか、あるいはもっと俗的な、例えばいまの貴方に呼びかけるのが面倒臭いとか、能力がないとか。2000年後の観測者のことを考えている。光の速度とかは知らん。何光年前とか、何十億年前の光とかは知らん。言語の蓄積の偏微分処理も知らん。些細なことだ。

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