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『Caligula2』 感想

7月序盤はずっと気になっていた『Caligula2』をプレイしていました。セールありがとう。「現代病理×偶像殺し」と銘打たれた本作、シナリオが非常に良かったです。

「現代病理」としてキャラクターに内在する苦悩を書いた本作。主人公サイドである帰宅部の面々の内へと迫るキャラクターエピソードに心を抉られた。現実へと帰る道のりの中で、主人公である部長が当人の悩みに寄り添って(時に揺さぶって)乗り越える足掛かりを作っていく丁寧な筆致が良かったです。インタビューでも触れられていましたが、ノトギンのエピソードは"現代"病理として書ききらなければ嘘になっていた部分だと思うし、説教臭くならずにゴールまで辿り着いたバランス感覚には脱帽です。二胡のはマジで何が見えてんのお前……という感じで恐怖を覚えましたが。人間関係は創造と破壊!

リドゥへ誘われている以上、楽士側も例に漏れず何らかの後悔を抱えた人間であり、図星を突かれた瞬間に大声で怒鳴り散らすのがいかにも人間臭かった。急激な温度の上がり方に置き去りにされたことが多々あったが、往々にして他人の激情には付いていけないものである。ブラフマンの目的が明かされる下りもそうだけど、リグレット魂の絶叫からどうしようもない人間性が露呈していくシーンは名場面だった。あの短いセンテンスだけで急激に熱が冷めていく感覚をこれから味わえる気がしない。自分の行動への責任は背負いなさいよアンタ。

そして「偶像殺し」としてのリグレット戦。最終盤ではリグレットがバーチャドールではなく人間であり、半ば強要されて神を演じていたことが明かされる。最後にはリグレットへの顔なき信仰心が防衛機構として働き(顔はあったが)、帰宅部とのラストバトルへと突入する。あまりに多くの人間の想いは同じ人間には背負いきれないため、正しく偶像であるキィがそれを引き受ける、という帰結があまりにも正しかった。最後まで虚像/虚構を否定せずに役割を持たせる姿勢が僕の心を温かく覆ってくれた、気がする。昔からフィクションに慰められてきた人間なので、一種の逃げ場が自分にとってのキャラクターや物語であり、そういう意味ではこのゲームは僕の居場所だったな、と振り返ってしみじみ思う。

メインシナリオからキャラエピソードまで、胸を打たれるシーンがいくつもあったが、結局のところ終盤に切子たちとパンドラが今一度対峙するシーンが何よりも頭に焼き付いている。件の策略により大量の敵から追われ駅を逃げ惑っていた帰宅部一行は、パンドラの手助けにより駅からの脱出に成功する。窮地のヴィランたちを自身の領域に招き入れたパンドラは、主人公たちを一時的に捕らえ現実に帰りたい理由を問う。それに対して切子が「未だ迷いはある」という回答と同時に「リドゥでの小休止の時間に感謝している」という旨の発言をするのだが、この一連のやり取りはクライマックスへと向かうにあたって"帰宅"への感情を清算する、なくてはならないシーンだったように思う。現実への帰還が正しいという価値感が全てではなく、選択肢の狭間で揺れ動くキャラクターの心情を丁寧に追いながら強い決意を書いた非常に良いシーンでした。

リドゥで培った経験や育んだ関係がこれから向き合うつらい現実で前を向くための支えになってくれる、そう思わせる温かい幕引きが僕は好きです。結局クソみたいな世界でも自分の置かれた状況は簡単には変えることは出来ないし、その時持っているもので腐らずにやっていくしかない。その構図は画面の前の僕にも当てはまる。人生はカス!と全て投げ出したくなった時、『Caligula2』は僕の心を慰める/鼓舞するものの一つになってしまった、嬉しいことに。絶望的な状況での息継ぎとして虚構に触れる時、得られるものがあると僕は信じている。

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