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TOMORI KUSUNOKI LIVE TOUR 2023 『PRESENCE / ABSENCE』 東京公演 感想

他人との価値観の相違、当然のように行われる無理解の強要、生きているだけで息苦しいことばかりだ。そんな世界でも生きてさえいれば、摩耗した心を抱きとめ、寄り添うことで安らぎを与えてくれる存在は必ず現れるものだ。
僕はこのライブを見るためにここまで苦しんできたのかもしれない。心の底からそう思った。

というわけで、TOMORI KUSUNOKI LIVE TOUR 2023『PRESENCE / ABSENCE』の東京公演に参加しました。
開演前は「さ、今日もいっちょ整っちゃいますか〜」という気楽な感じでいたのだが(演者が「好きに楽しんでくださいね」というスタンスのため)、終わってみれば近年で一番と言っていいほどボロボロに泣かされていた。

楠木ともりの曲には『Forced Shutdown』や『遣らずの雨』など、“君について思い悩む私(僕)”が歌われる曲が多い。前者では取り返せない行動への後悔や塞ぎ込み声を聞こうとしない“君”への怒り、後者では“君”に寄り添うことで生まれる“僕”の苦しみが歌われる。これら曲中の二人の間には隔たりがあるように感じられる。ここから、僕は楠木ともりというシンガーの中には自身と他者との間に明確な線引きがあるのではないか、と思う。先の曲で歌われている激情を汲んで断絶と言ってもいい。
断絶と書くと否定的なイメージが先行するが、むしろ今回のライブではそれがプラスに働いているように思えた。明確な線引きがあることで共感や尊重、肯定により強く意味が生まれるからだ。
彼女は他人であるはずの“君”を、まるで自分を愛するかのように強く想う“私”を歌う。届かない言葉があるとしても届けたい想いがある。“私”と“君”は違う人間だから真に理解はできないけれど、“私”が“君”を想い、寄り添っているのは本心からで、それを受け取ってくれることを願っている。“君”視点の心情が書かれないことから、結局は受け手の問題だという諦念が見え隠れするものの、それでも相手を想い苦しみ続ける。断絶があるからこそ、それを乗り越えて自らの情動を届けようとする姿は純真さをはらんでいて、その美しさに強く心を打たれてしまう。

ライブ中盤に挟まれたMCでは様々なことを語ってくれた。
初めは自らの話。以前にも立ったこの会場での悔しい経験、メジャーデビュー直後からコロナ禍に見舞われ観客の顔を見れない状況で行うライブの苦しさ、やがて自分を見失い全部やめてしまおうかとも思った過去。
今にも泣き出してしまいそうな、か細い声が僕の胸をかきむしる。
それでも何かしたいという想いは胸の内に残り、作られたのがライブタイトルにもなっている1stアルバム、『PRESENCE / ABSENCE』。この日まで歩いてきた彼女の存在証明が、このアルバムに込められた意味の一つだった。
彼女の口から語られた「存在証明」という言葉が重く、僕の心に突き刺さる。自分が懸命に生きた証を、無様にも足掻いた爪痕をこの世界に残したい。同じ気持ちを抱えているから痛いほど彼女に感情移入してしまう。
そして彼女の言葉は僕らに向けられる。
アルバムに込められたもう一つの意味は二面性。
ライブで笑顔を見せているあなたもいつもは苦しんでいるのかもしれない。こんなことを言うと嫌なことを思い出してしまうかもしれないけれど、でも私のライブに来た時はそんなことを考えなくていい。自分のことをどれだけ必要ないと思っていても私には必要で、誰に認められなくても私が存在を認める。私のライブをみんなの居場所にしてみせる。
感情の奔流に足を取られ記憶もおぼろげなのだが、そんなことを言っていた気がする。これほど強くまっすぐに他人から肯定の言葉を受けたのは初めてだった。
ライブに足を運んだ僕らに激情の矛先を定め、“君”にしてしまうには十分すぎるほどの力を持った、楠木ともり全身全霊の言葉たちだった。あまりにも純粋で真摯な言葉は時に凶器にもなりうる。傷つくあまり刃こぼれしていて、それなのに/それだからとても鋭利で、様々な色で呪われていて、炉に入れたように熱いその刃物の切っ先が誰でもない僕に向いた瞬間、これは僕のための言葉なんだと理解した。あまりの鋭さと熱さに心を焼かれ、ステージへ顔を向けているだけで精一杯だった。届けたい、絶対に届かせてやるという気概がそこにはあった。

強烈な求心力を持ったMCに続く『それを僕は強さと呼びたい』。
過去の記憶と未来への空想が一瞬で脳を過ぎ去り、明瞭な輪郭を伴った情動が現在と定義される。これぞライブだ。
自分の言葉や価値観を大切にしたいけれども、他人にとってそれはさほど気にすることでもないどうでもいいことで、葛藤や軋轢で心がすり減っていく日々。憎しみや苦しみ、後悔や怒り、それらがない交ぜになった「悲しい」や「悔しい」などの簡単な言葉では言い表せないどろどろでぐちゃぐちゃの感情を、吐き出せないまま自分の中にため込んでいく“僕”。
自分自身を歌われているようで涙が止まらなかった。
だが、膝を抱えうずくまっていた“僕”は光さす窓の外へ目を向け、捨てられない自分自身の肯定へとたどりつく。ここにこそ楠木ともりが届けたいメッセージがあるように思えた。
終わらないでくれ、曲中にそう何度も願ってしまうほどには今の自分に寄り添ってくれる大事な曲だった。

何一つ生まれない日も生きていること
それを僕は強さと呼びたい

それを僕は強さと呼びたい/楠木ともり

そして歌われる『アカトキ』。
自身の存在証明として音楽を作ることや自分に必要な存在として僕らを肯定してくれること、そして僕たちの居場所としてライブ空間を成り立たせること。それらを述べた後に歌うこの曲はあまりにもメッセージ性が強すぎる。
「歌って!」と心の底から楽しそうに呼びかける彼女を見てまた涙が出た。
あの瞬間、僕らの居場所を作るという彼女の理想は確実に叶っていたし、それに立ち会えた事実に対して未だ幸福感で包まれている。
これから彼女のライブに足を運ぶ度、アップデートされていくであろうまだ見ぬ思い出たちを想像するだけで心が踊る。

今は笑われたとしても 決して無駄なんかじゃないんだって
証明する 肯定する 退屈なんてかき消してさ

アップデートしていこうよ
君と笑えているこの瞬間(とき)を

アカトキ/楠木ともり


ライブのトリを飾ったのは『僕の見る世界、君の見る世界』。あの幸福な空間を終わらせる曲としてこれ以上なく相応しかった。
この曲では憧れである“君”やその感情を抱いていた過去の“僕”自身との決別が歌われている。ライブという非日常の中で視点を共有していた僕たちも、それが終われば自分の世界に戻らなくてはいけない。でも、明日見る世界はきっと色づいている。彼女がくれたその確信が、僕に一日を終わらせる勇気をくれる。
彼女が成した、今見えている自らの世界の肯定が、僕の背中を優しく押してくれているような気がした。

僕の見る世界は伸びきっている 戻そうとしたって畳まれていくだけ
君の見る世界に背を向けるよ 車窓から落ちる 君の声だけ 拾っておくよ

僕の見る世界、君の見る世界/楠木ともり

以上、楠木ライブ超絶楽しかった~の感想でした。
こうやって自分の存在を認めてくれる他人や肯定してくれる居場所があるからこそ、未来へ向けた一歩をいつもより少しだけ強く踏み出すことができる。僕を知らない他人の目には何の意味も持たないものに映るかもしれないけれど、それは確かに僕の存在証明なのだ。そういう気概で、生きることをもう少しだけ頑張れそうな気がした。

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