誰かの声とその距離

 今も昔もそうですが、人間の目に映る距離感って「映像」というメディアが出てから疑似的でも真実として見てしまう傾向になっている。

 「テレビ」という装置が家庭に一般的に広まった以降は顕著に見えて、例えばテレビドラマでも、その世界は虚像なのに、視聴者は本当のことに思ってしまっている。

 時たま、悪役を演じる俳優さんがインタビューとかで、一般の方から「あんた、◎◎ちゃんに陰湿ないじめするんじゃないよ!」と言われるというのを聞いたことがありますし、やくざ映画に出た俳優さんがソレ通りの見られ方をされたりとか。

 実際の人間と人間という距離感とは別に、人間と映像そのものという距離感も出来ている。後者の距離感は確実に離れてるのに、絶対的に「近いモノ」と勘違いして、あたかも近所の人や友達や仲間だと思ってしまう。

 さらに今だと、演じる側と観る側が「会いに行ける」というサービス的距離感が生まれて、ある程度「結界」として出来ていた距離感が詰まって、判別の付かない人はもっと距離感が無いとして思ってしまう。

 とかく、人間関係が気薄になるのが顕著な時代。その薄さから誰か自分を理解してくれる人を求めてしまう傾向もあって、簡単な演者とファンと言う距離に甘えてしまう人が多いのかもしれない。

 でも、その距離って、映像やステージで会える人との距離は、確実に自分の近くにいる人じゃない。自分の近くにいる人は家族だったり、近所の人だったり、学校の人だったり、会社の人だったり。

 「遠くにいる人」に対して、「近しい」と思っているから何してもいいと言う訳ではない。

 「距離が近い」というのは疑似的なモノと思わないとね。「距離の近さ」は感じられても、そこに甘えを感じてしまったら度を超えてしまうと思う。

 TwitterやSNSでリプしている相手は「近しい人」ですか?今一度考えて整理するのも大切だと思います。話し言葉に失礼が無いか、尊敬をこめて言葉にしているか、相手が混乱してしまうような言葉になってないか、相手を陥れようとする言葉になっていないか。

 時より、私も度を超えた、いわゆる「クソリプ」をしてしまう時があります。場合によって私は気を付けないとと思う時があり、退いたりしてますが、たぶんそれに気付かずクソリプを続けてしまう人は何か別の快感も感じているんでしょうね。

 声は重なると、ナニしてもいいんだという雰囲気になり、野放しになってしまう。無法地帯になってしまう。なにしろ、先が見えない、新型コロナの先行き不安な状況。

 相手の状況を察して、気遣って、見守る、言葉を選ぶ、そっとする。それだけでも安心感を与えられることも出来ると思います。

 そばにいる人は、近しい存在ですか?