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【推しの子】10秒で泣ける天才子役 - 進化する感情ポルノと克服の描写

この記事は、【推しの子】の65話までの重大なネタバレを含みます。本当に重大なネタバレなので、未読の方は注意ください。
65話で回収した伏線と、10秒で泣ける天才子役とは誰の事だったか、について語ります。
※以下、本文中では単に推しの子と表記します...

許せない事はあっても、純粋に面白い推しの子

はじめに強く述べておきたい事があります。私は推しの子について、全く納得できていない事があるのです。
それは、ゴローが「既に形のできていた」胎児に転生したということ。

転生モノ、百歩譲って形ができていなかったら、許せたんです。
でも、推しの子の場合は、既に命を持っていた胎児に転生/憑依しました。
これが、私にはどうにも許せなくて...
胎児というのは、何かあれば母体から取り出されて生きる存在であって、つまり既に一個体として生きています。出産に対応できる医師であるゴローは、その実感は十分に持っているはずで、その彼があのように転生をすることも、転生をさせることも、私にはある種の冒涜のように思えてなりませんでした。
とにかく強い違和感があり、今でも私はそれを許していませんが、例えばこの後完全な別人格である事が示されるとか、何かの救いを持つものと信じて読み続けています...

というのはだいぶ嘘で、許せないけれども単純に漫画として面白いので、そんな主義主張は一旦忘れて読み続けてしまっている、というのが本当のところです。
その面白さとは。一言で言うと、感情ポルノです。

極限の感情と日常が同居する舞台、感情ポルノのデザインのうまさ

私は推しの子を感情ポルノだと思っています。

ここでいう感情ポルノというのは(多少の前例はありますが)私の造語で、「とにかく強い感情の動きを貼り合わせてできた、人に強い感情を起こさせる刺激性の強いモノ」といったニュアンスを表現しています。偏った障害者の起用を批判する言葉の感動ポルノとある意味で共通するようなニュアンスです。

推しの子を感情ポルノなどと呼んでしまっているのは、推しの子は負の側面も含む人の強い感情をかなりストレートに表現しているからです。

例えば、人の生き死にが漫画における重要なテーマであることは、強い感情を生む重要な理由となっています。

主人公はいきなり殺されて、推しの子供に転生する。その推しである転生後の母、アイも殺される。主人公と一緒に転生した推しの双子の片割れは、主人公がアイを推す事になった理由を作った患者で、当然転生前に死んでいる。
アイはアイドルの与える愛を嘘と言いながら、子供も含めて愛を全うしようと生きる。アイを失った主人公は、悲嘆に暮れながらも憎悪から犯人を探し出して復讐すると誓う。

これだけでも随分と強い感情のオンパレードですが、強い感情描写には面白さがあって、ただそれだけでも引き寄せられてしまいます。

ちなみに、強い感情のオンパレードとなる漫画は他にもあります。例えば鬼滅の刃です。鬼滅の刃において、鬼殺隊は鬼に関係者を殺されて鬼に対して強い感情を持ち、それは重要なテーマ・物語の面白さを作る要因になっています。呪術廻戦でも、五条悟の夏油傑への感情、乙骨憂太のリカちゃんへの感情、といった感情が物語を彩る重要な要素となっています。

しかし推しの子においては、鬼滅の刃のような極限状態ではなくて、現代の普通の(?)日常の中で感情が展開されます。
これが決定的な違いです。
鬼滅の刃にも、いわゆる日常回みたいなものはありましたが、あれは異常の中の日常。
こちらは、話の筋にこそ復讐はあるけれども、少なくとも形式的には日常の中の異常。
本質的には、いずれが主かという事よりも感情の強い表現の存在が重要と思うのですが、いずれにしても強い感情を生み出す理由が必要になります。推しの子では、その理由を話の設定・"舞台"に求めていて、それに一役買っているのがまさに冒頭で強く批判した「転生」なのです。
ゴローが転生していなければ、一度死を迎えてまたさらに母との離別を経験するという構造が無ければ、日常の中に極度の感情を生み出すことは容易ではありません。そこに少年誌的なバトルのようなものがない限りは。(タコピーの原罪を除いて。)
例えばスポーツに取り組む中で生まれる感情は、普通は直ちに生死をかけた物にはなりませんし、命を奪われた事への復讐のような思いにもなりません。
そのような観点で改めてジャンププラスの漫画を眺めてみると、感情ポルノがなんとも多い事に気付きます。時にデスゲーム形式で、時に極限バトルで。
私の子供が必死に見ているやたら教育的なアニメ、パウパトロールやパジャマスクと比べれば、感情の強さにとにかく驚きます。まあ少年漫画は昔からそんなものかもしれませんが、しかしそれを純粋な「日常」で行っているものは、あまり多くはありません。
このような感情ポルノを「日常」の方を主にした上でやってしまった事が、推しの子の"設計"の凄さ。
むむむ。これは主義主張と反するものの、面白さのために受け入れざるを得ない。

...そんなことを思いながらずっと読んでいたんですよ。
ところが、この「日常かつ転生」ストーリーの設計の面白さはそれだけでは無く、もっと深いところまで影響するものであったということが、65話で示されました。
その事を引き続き語っていきます。

ストーリーの中に生きるキャラクターとその課題

10秒で泣ける天才子役、いや重曹を舐める天才子役、重曹ちゃんこと有馬かなは、この作品を面白くしている重要なキャラクターです。
天才子役として、スター性のある演技により華々しくデビューしながらも、より分かりやすいすぐ泣けるという武器を押し出して一世を風靡。しかし、天狗になっていた時に主人公のゴローことアクアに年齢不相応に不気味な"演技"で負けて鼻を折られてしまう。その後、役者として生き残るには「使いやすさ」、自分勝手に主役として振る舞うだけでなくて作品を作品としてトータルで成立させる事も大事だという事を悟り、失敗をしながらも使いやすい女優として生き残る。
幼少期に共演してからしばらく接点がなかったものの、アクアは演技をする上でのライバルであり、また同時に恋愛的に気になる相手でもある。

一方のアクアは、元医者としての頭の良さを生かしてそつなく立ち回る事ができるものの、年齢不相応の大人びた不気味さ以上の武器は無い。少なくとも、本人はそう思っている。演技に興味がない訳ではないが、あくまでも推しのアイとゴローを殺害した芸能界の人物を探ることが演技の理由であって、あくまでも手段にすぎない。
しかし、その考えも抑圧や合理化を孕むもので、幼少期にアイに褒められた演技を素直にアイデンティティにしたかった気持ちもある。

アクアが感情演技を避けている事は、周りにもはっきりと見えていて、アクアから感情演技について聴かれた重曹ちゃんは感情の引き出し方についてこう答えます。

「お母さんが死んじゃったらどうする?」

これはアクアにとっては中々グサッとくる言葉ですが、当然重曹ちゃんには知る由もなく、一般論として当然の事を伝えただけでした。
しかしこの感情演技は大きな壁で、アクアの心の中には「アイを殺されたお前には演技を楽しむ権利はない」というサバイバーズギルトの化身のような「リトルアクア」ならぬ「ビッグゴロー」が棲んでおり、楽しさを感じて感情を解き放とうとしただけで倒れてしまったアクア。
本人の口から過去にうまく越えられなかった事が示され、改めて向き合おうとすると倒れてしまうほど根深く高い壁。そんな壁を越えられないまま、感情演技を求められる劇の本番を迎えます。正統派のジャンプっぽい展開ですね。

10秒で泣ける天才

その本番で、アクアが壁をどう越えるのか。その答が65話でした。
答は拍子抜けするほど「単純」で、

「お母さんが生きてたらどうする?」

もちろん、お母さんが生きてたらどうする?と単純に描かれている訳ではなくて、演技に踏み入った思い出を描き、サバイバーズギルトの化身のような「ビッグゴロー」の"本当の姿"は「リトルアクア」である事を描き、「その感情 使うぞ」というバトルマンガさながらのセリフを経て、もし生きてたらという心象を示して、一話まるまる使って「お母さんが生きてたらどうする」が描かれています。しかし、シンプルに言うと「お母さんが生きてたらどうする?」という事でした。

ここに繋がる流れが素晴らしいです。
直前の話において、10秒で泣ける天才子役の有馬かなが本来一番輝く瞬間は「自分を見て」と思っているスター性を発揮している時だと言われています。器用な努力家なので泣く事も周りに合わせる事もできましたが、彼女の本質は泣く事でも周りに合わせる事でもなくてスター性なのだ、と改めて示されていたのです。
では、本当に泣くのが「得意」なのは誰だったのかというと、実はアクアだったのでした。

この話を課題解決のスキームで眺めてみると、非常に興味深いです。
まず、アクアは単純に一般的なやり方・アドバイスを適用して課題を解決することはできませんでした。しかし、自分なりに考えて、自分の使えるリソースを使う方法をアレンジしつつ、本質的にはアドバイスの通りの行動で課題を乗り越えます。
しかも、必ずしも一般的ではない悲劇の体験があったとはいえ、この解決法を実践出来た理由は必ずしも先天的な才能ではなくて、後天的な経験を踏まえたものとなっています。生まれつきの天才だから出来たという事ではなくて、生まれた後の経験によってできるようになった事でした。少なくとも、この課題に関しては。
これは、生来の不気味さ、転生による先天的な特殊な才能だけを使って有馬かなに敗北を感じさせた幼少期とは異なり、ある種の努力や後天的に得たものが通用する事を示しています。
また一方で、単純に頭を使う事によってリソースを使いこなすという意味では、幼少期も65話も共通していて、アクアは一貫して頭を使って戦っています。
唐突に出てくる謎の才能に過度に依存せず、物語の中に既に見えていた"手札"で課題を解決していく構成は素晴らしい。
幼少期のものは単なる課題解決でしたが、65話はこれまで出来なかったことの克服なので、物事を克服するとはこういうことだ、と示しているようにも見えてきます。これはすごい。

ここで、課題解決スキームみたいな見方ではなくて純粋なドラマとして見ると、文字通りに身を削るような感情の使い方によって読者に悲痛な感情を呼び起こすのが65話でした。
大きな壁を乗り越えると同時に、その乗り越え方には痛みを入れ込む。しかもその本質は超絶的な身体能力を駆使した必殺技のようなものではなくて、多くの人に想像しやすいであろう心の動き。
これを感情ポルノと言わずに何というのか、と感じます。

それを、変なバトル空間や特殊な状況ではなくて、「普通の」現代日本の環境の中でやってしまったということ。
「日常かつ転生」というストーリーは凄まじいと思いました。

この65話の内容は、「嘘はとびきりの愛」というアイの言葉とも重なって、一層かなしいですね。生きている母を愛した有馬かなにとっての愛は「お母さんが死んじゃったらどうする」であり、死んだ母を愛したアクアにとっての愛は「お母さんが生きてたらどうする」なのです。
アイの話した元のニュアンスとは違うけれども。

嘘ではない愛の可能性 - 理解と愛

ということで65話で「お母さんが死んじゃったらどうする?」に対する答えが示されて、真の10秒で泣ける天才はアクアだったと明らかになった訳ですが、このままではちょっとかなしい結びになってしまいます。
そこで、嘘ではない愛の可能性を探るために、アクアを見て素の顔になってしまっている天才棒役者の黒川あかねにも触れます。

黒川あかねは、有馬かなとはまた違った意味で生真面目です。
有馬かなは生き残るために協調といった知恵を身につけたり、押されると弱いような面もありつつ、素のあり方としては自分の感性を信じて自分の道を進んでいます。
黒川あかねはそうではなくて、ある意味での天才ではありますが、確固たる自信を持った自分がある訳ではありません。演技としては役に憑依するかのようなあり方で、それは徹底的な分析と理解に基づいたものです。
そのため、恋愛リアリティショーみたいな素の自分の延長が求められる場面では、作品としてあるべき演技みたいなものを見出しにくく、うまく動けなかったり切り取られて放送されて過度に炎上したりしてしまいますが、普通に台本のある劇については天才女優として活躍しています。

65話で、ビッグゴローの皮を被ったリトルアクアは「演技は楽しいか?」と呪いの言葉をかけますが、そこで並べられているのが、有馬かなと黒川あかね。
黒川あかねはアイの魅力すらも再現できる徹底的な分析能力を活用して、ほぼ誰も辿り着いていなかったアイの真実やアクアのトラウマに気付きました。
理解者という言葉で語られる黒川あかねの理解する力もまた一つの愛の形になり得るのではないか、と思うのです。嘘とは真反対の、真実を理解するという構図。あるいは、嘘も含めて全てを受け入れて理解するということ。
理解と愛の構図については、実はアクアと有馬かなにも見出す事ができます。B小町加入、初の本番から東京ブレイドまで、アクアが有馬かなの性質を理解してリードすることによって、有馬かなの本質は引き出されました。

嘘ではない愛に未来はあるのか?嘘を貫くのか?
どうなるかはわかりませんが、私はこの先の展開に期待しています。最初の展開には納得できなくても。。。

後は、ビジネスとDXに関する余談です。推しの子についての直接的な感想はここまでで、この話の何がDXにつながるんだろう?と思った方だけお読みください。

後から遡って読むのが特に面白い、ジャンププラスのビジネスモデル - ビジネスとDXが淘汰圧を変える

推しの子の設定は、物凄く独創的ということではないですが、しかし絶妙なバランスで、ありそうで無かったものを体現しています。
転生という設定自体は昔からしばしばあったもので、近年はいわゆる「なろう系」で特に流行っています。しかし、本人の成長や与えられた武器について頭を絞って戦うジャンプっぽい部分を持ち、かつ舞台が普通の現代日本で、しかも人の生き死にのような極限状況が関わるというところが、ありそうで微妙になかった部分のように感じています。

この設定自体、上述の通り非常によくできたものだと思いますが、しかし設定よりももっと特徴的なのは、読み返す事が特に面白い、というマンガの設計だと感じます。
例えばわかりやすいところでは、まだアイが死ぬ前の時点での、有馬かなのインタビューの言葉。直近のお母さんが死んじゃったらどうする?もそうですが、後の展開でその時の言葉の重みがわかる、というパターンがしばしばあります。黒川あかねに至っては、作者すら重要視しているのか分からないぐらいの描かれ方だったのが、いきなり強い個性を与えられたようにも見えましたが、振り返ってみるとなぜ恋愛リアリティショーではあんなに上手くいかず、一方の劇では上手く行くのかという事をそれなりの納得感で説明できています。
一般論として、どんな作品にもそういった要素はあるとは思いますが、推しの子ではそれが際立っているように感じます。

これは、推しの子という作品の個性ではあるのですが、それがヤングジャンプ/ジャンププラスに出てきた事には意味があるように感じています。

推しの子はヤングジャンプで連載していますが、1週間遅れでネット媒体のジャンププラスでも配信しています。ジャンププラスでは初回は無料ですが、時間が経つと2回目以降はポイントが必要という配信スキームになっています。このスキームが、読み返す事に意味がある作品と相性の良いものになっています。
それで私が思うのは、作品が質的に感情ポルノに寄っている事も、読み返すことで発見がある構成になっている事も、文化としてのマンガの進化だけではなくてビジネスモデルの変化が影響しているのではないか?という事でした。
週刊誌を手に取ったり、単行本を手に取ったりするのではなくて、空いた時間でスマホからコマ切れの作品に触れる。場合によってはSNSで拡散されたコマ切れの内容で作品に触れる。その中で特に印象に残るのは、鮮烈な感情を呼び起こすものであり、そのような淘汰圧が働いて感情ポルノ化が強まる。
同じように、初回無料でも繰り返し読む事でお金を稼ぐようなモデルの場合には、繰り返し読まれるような作品が生き残るように淘汰圧が働く事になります。
これは、「タコピーの原罪」の登場によっていよいよ確信になりました。タコピーの原罪の内容についてここでは深くは触れませんが、生死を含む強い感情が絡んでいて、多くの人が間接的に触れ得るテーマで現代日本を舞台にしている。かつ、先に進んでから読み返す事で、以前のセリフに深みが増す。
感情ポルノというと言葉が悪いので、ビビッドな感情とか剥き出しの感情とでも言うべきなのか、とにかく強い感情に触つつ、言葉の意味づけについて話が進むことで明確になるというパターン。
良くも悪くも、ビジネスモデルの形から作品そのものが影響を受けているように感じます。

このようかビジネスモデルが成立するようになったのは、流行り言葉で言えばDX=デジタルトランスフォーメーションの賜です。
デジタルで販売流通されるようになり、それに対して有効なコンテンツが生き残るようになり、良くも悪くも作品の質が変わっていく。

これからのマンガはどこへ行くのだろう。そんな事をぼんやりと考えていました。

DXの先 - ITの仕事をする立場から思うこと

私はいわゆるwebサービスの開発の仕事をしていますが、自分の仕事の一つの本質はコミュニケーションチャネル・インターフェイスの設計であると考えています。
最近はwebサービスの開発が先鋭化して、アプリやサービスを作る・コミュニケーションチャネルを規定するということが、直接的にビジネスモデルを規定する場合が多々あるように感じます。
一例として、もしジャンププラスのようなものを開発する場合には、その設計によって最終的に集まる作品の質すらも変わる。極論すると、何度も読んで儲かる形にすれば何度も読ませる作品が集まり、とにかく一度でも読ませる事で儲かる形にすれば一度だけ読まれれば十分な作品が集まる。
このいずれを意図して選ぶかはビジネス的な問題ですが、選んだものを実際に実現するということは技術的な問題で、その実現・実装の質が結果に影響します。
その意味で、webサービス開発の仕事は本質的にビジネスに影響を与えうるために面白いなあと思うと同時に、今まさに日本の各地で進もうとしているDXの先にどのような状態が待っているのか、想像し続けることが大事だなと感じたりしました。おしまい。

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