栗山百合子先生の思い出
※31日間チャレンジ30日目。
今年は4年ぶりにリアル開催での大学の卒業生の集まりがあったのだが、その際に、私たちの大学の精神的な柱だった、栗山百合子先生の追悼式も併せて行われた。
私が大学生の頃は、栗山先生は学長を退かれて、会長か何かの職に就きながら、『人間論』や『英語音声学』、英語学関連の演習のクラスなどを受け持っていらっしゃったように思う。
ジョサイア・コンドルが設計した本館の中にお部屋を持っていらっしゃって、学生は相談などの折に栗山先生(シスターでいらっしゃったので、シスター栗山と呼ばれたりもしていた)のお部屋に行って話をしたりすることができた。
私は1年生の時に、どうしても朝の1限のクラス(9時スタート)に間に合うことができず(家が遠かったこともあったが、早起きができなかったのだった)、それが悔しくて悲しくて、栗山先生に泣きながら相談しに行ったこともあった(自分で今思い返しても、そんなことで号泣しながら相談に行くなんて、しみじみ、変な学生だったなあ)。そんなアホな相談でも、シスター栗山は、バカにすることもなく、親身になって相談に乗ってくれるのであった。
2年生の時のシスター栗山の英語学演習では、学生が6名ほどのクラスだったのだが、夏休みが明けて最初の授業の時に
「さあ、経験を皆で共有いたしましょう!」
と明るく朗らかに言ってくださり、みんなで夏休みに何をしたのか報告しあったのだが、なんと全員が伊豆に行っていて、あまりのシンクロっぷりにみんなで笑ったりしたのもよく覚えている。
そんなシスターがお亡くなりになったのは、2020年3月4日のことだそうだ。6月に行われた追悼式には、大学の維持発展協力会(大学に寄付をする団体)の会長さんをはじめ、多くの元教員、卒業生などが集まり、シスターの思い出をスピーチしたりした。みなさん、個人的なシスターとの思い出話をしてくださり、在りし日のシスター栗山の、明るくてお茶目で朗らかなお姿が目に浮かぶような、楽しいお話ばかりだった。
シスター栗山は、うちの大学の英文学科の第1期生でもいらっしゃった。美しいイギリス英語の発音をなさる方で、それまで英語といえばアメリカ発音しか知らなかった私は、大学でイギリスの発音を初めて耳にして驚いた。英詩の読み方は独特な節回しがあり、シスター栗山がイギリスの発音で英詩を読み上げると、なんともいえない美しい響きがあって、うっとりと聞き入ったものだった。
大学は昭和25年に横須賀市で設立されたが、昭和37年、現在の大学の校舎となる敷地が、GHQの接収後、吉田茂のとりなしで譲り受けることが決まったあと、シスター栗山ともう一人のシスターが、最初に島津山の旧島津公爵邸に足を踏み入れたそうだ。夏の暑い日で、草や藪が伸び放題、いったいこの荒れはてたお屋敷をどのように切り開けば片付くのかと途方に暮れた、という体験を、シスター自らが私たち学生に語ってくださったこともあった。昭和30年代の日本のエネルギッシュな雰囲気と、シスターの青春時代のきらめきが、重なった時期だったのかな、と感じて、いつかNHKとかでドラマ化して欲しいと思ったくらいだった。
その美しい建物を建てたのが、東京大学工学部の前身に初めて着任した、イギリス出身の若き新進建築家ジョサイア・コンドルで、彼の指導した学生たちが日本の明治から大正、昭和初期にかけて、国を代表する建築の多くを作っていった・・・なんてことに興味を持つのは、私が大学を卒業してから約5年後、不思議な巡り合わせで丸の内で勤め始めてからのことだ。まさか自分の母校の本館を建てた人が、丸の内のあたりの建物や、自分が勤めている銀行の創業者たちと、深く関わりがあったなんて、大学生の頃は全く気づかなかったのだった。(その後、私は、近現代建築にどハマりして、コンドル先生やその弟子たちのことを、めちゃくちゃ調べ始めることになる。)
毎年一冊送られてくる卒業生の会報は、今年、シスター栗山の追悼記事が多くを占めていた。たくさんの人の、シスターとの思い出話を読みながら、ああ、ほんとに、シスターは、明るくて朗らかでちゃめっ気があって、大学の精神的な柱でいらっしゃったんだな・・・と思った。そのような柱のいる集団というのは、とても強い。でも、その柱がいなくなった後、その集団はどうなるのだろう。
今年の卒業生の集いに、私の同期が誰もいなくて、寂しかった。
来年、2024年は、コロナで中止になっていた私の学年のホームカミングデーも開催するらしいのだが(開催されたら・・・何年ぶりだろう、20年ぶり・・・?卒業してからだと30年近くぶり)、現在、卒業生の会の委員に、私の同期がひとりもいないのが、これまた気になるところだ。
・・・実行委員に・・・なろうかな・・・。
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