「昨日に笑われないように」
どうも。私です。
いちオタク、いや櫻井翔を「人生の師」だと思う私にとって、絶対に行かないと思っていた「櫻井翔 未来への言葉展」。なんとか自力でチケットをとり、ひとりで行ってまいりました。
この記事は、展示会のレポではなくこの展示を見て私が感じたことをつらつらと書いてみます。なので若干のネタバレを含みます。これから行くよ!という方でいかなるネタバレも避けたい方はここで画面を閉じでください。そうじゃない方のみどうぞ。
とはいえ本当に、展示を見て思ったこと・考えたことを書くだけなので、暇な方のみどうぞ。大してまとまってもないよ。
櫻井翔が紡ぐ言葉が好き
私は櫻井翔が紡ぐ言葉が大好きだ。いままでその理由をはっきりと言語化できたことなかったけど、今回の展示会でそれが分かった気がする。
私が彼の紡ぐ言葉が大好きなのは、相当の下準備をもって、覚悟や責任を持って、届けられる言葉だから。いや、こんなこと嵐ファンや櫻井ファンなら言わずもがなであることは分かってる。私だって分かっているつもりだった。
だけど、展示されていた記事作成に使用されていたパソコンやケータイ(ちゃんとauだったよ)、オリンピックの北島剛介の泳ぎを見た感想が綴られたノート、それからNewsweek誌に寄稿するにあたってかき集められた資料を見ると、半端な下準備なんてしてこなかったのが伝わった。
たとえば、北島剛介の泳ぎを見て書かれたノート。走り書きで字が綺麗ではないとはいえ漢字がしっかり使われていたり簡単な表が書かれているところを見ると、きっと試合があった夜にホテルが書かれた言葉なのだと思う。そうやって見たものを、一度自分の頭を経由して、ノートに吐き出されて。そこからさらに精査され整えられた文章が私たちに届いてるんだと感じた。
それから戦争に関する取材をまとめたブロック。櫻井が書いたメモというより、かき集められた資料が展示されていた。なかには、分厚い本に付箋を何枚も付けながら読んだ跡があった。ご家族が大切に残してくれた資料を持って来てくれた。こんなの、相当な覚悟がないと取材できない。
それらをちゃんと自分の中に落とし込んで、もう一度私たちに届けてくれる。だから櫻井翔の言葉が私は好きなのだと思う。
一瞬も無駄にしない
展示を見ていて思ったこと。それは、この人がおそろしいほどの行動力の持ち主だということ。
(これもまた、嵐ファンや櫻井ファンなら知っていること。多忙を極めていた時期、貴重な休日でさえ分刻みのスケジュールを組んでそれをこなすことに達成感を感じていたという)(いま思えば、そうでもしないと休みの日にやりたいことができないからだということも想像できるけど)
だって、今回の展示会で分かることだけでも
・NEWS ZEROの取材のため現地へ飛び、現地の人と会話する。
・そこで感じたことを放送で、自分言葉にして伝える
・実家にある資料を、ご祖父母様や親戚の方々に聞いて回る
・関連書籍を、付箋を付けながら読み進める
・Newsweekへの寄稿を書き上げる
・完成したNewsweekを持って大叔父さまのお墓参り。それに合わせて集まった親戚のみなさまともたくさん話す。
・可愛がっている後輩(SexyZone)のライブに行く
これに、バラエティやドラマの撮影が重なるわけで。いやどーなっとんねん櫻井翔。その体力と集中力はどこからきてるのか…。
私だったら、お墓参りが面倒でなかなか行けないし、「お墓参り行くんだ」って親戚への連絡もきっとできない、というかしない。関連書籍も読むって言ったって目を通すだけみたいな読み方になってしまうだろうし、可愛がってるとはいえ後輩の晴れ舞台を見に行くだけの時間を取るだろうか。休みの日なんだし疲れてるから行きたくないよ、の気持ちが勝ってしまいそう。
この人は職業柄プライベートと仕事の境界線が曖昧になっていて、
私はそうじゃない(そうしたくないと思っている)というところがあるにせよ、ですよ。
こういったことができるから、櫻井翔の周りには常に人がいるんだろうな。人との繋がりが面倒になってしまうことがないというか、そう思ったとしてもそれ以上の感情がきちんと上回るんだろうな。そんなこと私にできるだろうか…私はちゃんと周りの人を大切にできてるだろうか…。
必死に生きていない自分
そんな風に櫻井翔を見ていると、いまの自分はいつからか脳が死んでるんじゃないかという気がしてくる。何が起きても自分ごとに感じられないというか、必死になれないというか。「めんどくさい」「まあいいか」「仕方ない」に落ち着いてしまう。
私だって、嵐にハマり始めた小学生〜高校生の頃は嵐や櫻井翔の言葉がしっかり自分の中に刻まれていたのに、大学生以降はそういうことがなくなってきた。
これは、私の中の嵐熱が落ち着いてきたから?
私が大人になってしまったということ?(若い頃はスポンジのようになんでも吸収できるから、というのはこういうことか)
それとも、デジタル化が進んであらゆるものが「消費」されるような社会になってしまった影響?
こんな風に、櫻井翔の言葉さえ自分の中に刻まれずに消費してしまっている自分に嫌気がさしていた。脳が死んでしまったと思っていた(いまでも思ってる)。
だから、こんなに人のために走り回って、人を気遣い、思ったことをきちんと人に届けられる櫻井翔にずっと憧れている。
いまからでも、私のこの死にかけた脳は生き返るだろうか。毎日を一生懸命生きたら蘇るかもしれない。でも一生懸命に生きるって、どうやって?
いま出た結論は、「とりあえずやってみよう」の気持ちをもう一度思い出すこと。
こんな年になって馬鹿みたいになにかをやってみることが、周りに馬鹿にされそうで怖かった。
「アラサーでなにやってるの?」「現実見えてる?分かってる?」って声が聞こえてきそうで。
実際、私は私のことを本当に馬鹿だと思ってる。30歳手前にもなって、仕事も中途半端にしかできないし世の中のことなにも分かってない。若くはない。
だけど、そうやって自分はなにもしてないのに、誰かのことを笑ってる方が恥ずかしいと思えてきた。
それなら、やってみようかな。
そう思って、会場を出た後、いま思っていることを残したくてすぐにカフェに入ってつらつらとノートに思いついたことをそのまま書き残した。そしてそれを少しだけ整えて、ここに書き残している。
人に見せられるような記事じゃないけど、まあいいや。どうせ誰も見てないし。それでいいから、やってみることが大事。なんだと思う。
その方が昨日の私に笑われないと思う。
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