言い訳と恥ずかしさ
ガネーシャが言ってた
成功したい奴は見栄がない。恥ずかしい、めんどくさい、どうせ変わらんと思うのは「実は成功するのが怖いという価値観が根源にあるのかも」と。
少し違うかもな。成功は確約じゃない。そんなのに手出して失敗?みたいなのが怖いのかもな。
自分の能力が顕になるとき。それが恐れていること。成功、失敗はそれにつけられた名前。現象。
言い訳して良い訳?というギャグがある。その前にすべきことは成功の定義。俺夢中な時間多いと成功。それと少しの毒さえあればいい。
執着を捨てる
これは難しい問題だ。欲求には逆らえない。なかなか難しいのだ。できない自分を責める。これに意味あるのかとか思う。
もう僕たちは社会に出ていく。自分で自分を認める、確かにこれは自分本意の本来の意味での自由だ。どうやったらできるんだろう。未だに学校のシステムを引きずってる。人に褒められたい、認められたい。
ユングだっけ?フロイトだっけ?自己実現をてっぺんにしたやつ。なんでなんだろうあれは。自己実現している人は偉いのか?わからない。でも同じことの繰り返しはつまらん。マジでつまらん。
僕は哲学者じゃない
当たり前の事実だ。ただの21歳男性日本Japan、レペゼンは旭川だ。
なんでこんなことつらつら書いているんだろう。やっぱりこうやって書くより実際行動した人の方が偉いのか。そうか。そうかも。
行動までを分解
これが、人が動き出すために重要なステップだってどこかの誰かが言ってた。
本を読むまでには、本の存在を知る、目に入れる、触れる、ページをめくる、文字を読む、理解しようと頑張る
って感じか
あー、書いてて思う。これめちゃくちゃ良い。例えば何か文章を書く必要がある。そしたらパソコンの画面見てるだけでいいじゃないの。早く取り組めてれば全く問題ない。パソコンつけながら何か別のことをやる。そしたら「あー、飽きたしこれやるか」ってなる。
やるぞ!と意気込むからできない。やるぞ!と思うのは簡単じゃないからだ。いきなり文章書くのは難しすぎる。だからまずはパソコンを目に入れるところから。そんなんでいいのかも。
脳が溶ける感覚
文章を書いていて思う。こうして僕の思いや考えも文章にときほぐせば発見もある。未知もある。そして道もある。
程々のルーツなら捨てちまえってクソかっこいい人が言ってた。そうかも。
言葉のときほぐしはグラブ叩きと同じ。まずは柔らかく。考えない。浮いた言葉をつらつら書く。そして柔らかくなる。そしたら体が動く。そんなもん。
哲学者もどきで終わる気配は消えた。またダメなら考え直す。意味のない苦労はない、、とは言えない。
でも、適当でも時間かけても出来上がった作品、文章を見るのは好きだ。その場限りだけど。言い換えればアートだ。これは僕にとって一瞬のアートみたいなもん。おしまい。
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