かっこ悪くてもいい

昨日、1年ぶりくらいに文章(おばあちゃんのこと)を書いた。書いている途中に何度か泣いた。自分のために書いた文章だった。でも以前にnoteを書いていた頃に比べて、反応が少なく、そのことをちょっと気にしている自分がどこかにいた。そんな自分をかっこ悪いなと思った。

しかし、そもそも自分はかっこ悪くて根性のない人間だ。何かに夢中になったかと思えばすぐに放り出し、続けようと思ったことは続かず、決心した気持ちはすぐに揺らぐ。だから、せめて「かっこ悪い」感じ、すなわち「頑張っちゃってる」感じを出さないようにしたいと、あがくことはせずさっぱりと諦めたり、外野に移動し評価を下すだけの人になったりする。イタい人って、自分の身の程をわきまえていない人で、自己を過大評価して無理して大きく見せようとしている人ってかっこ悪い。

わたしは自分の気持ちがころころ変わることを知っている。気分の上下が激しいため、一時的に気が大きくなっているだけかもしれない。明日の自分が同じことを思っている自信がない。だからなるべく目標とか、宣言とか、自分にプレッシャーがかかることは言わないようにする。当初の目標にまったく到達できず有言不実行になるって、めちゃくちゃかっこ悪い。それなら初めから言葉にしない方が気が楽だ。

かっこよくはなれなくても、かっこ悪くなりたくはない。わたしはセンサーを鋭敏にしてアップデートを重ね、いつのまにか周りを「かっこ悪い」ことだらけにしていた。

自分がそんな風にかなりの視野狭窄に陥ってることを自覚させてくれたのは、きょう久しぶりに会ってランチをした、前職の大好きな先輩のシマダさんだった。シマダさんはさっぱりとした性格で、型にはまらない人で、一緒に話して笑ったら、驚くくらいすこんと気分が晴れた。別れて、家に帰ってからもなお「楽しかったなあ」と温かな気持ちがふつふつと湧いた。こんな気持ちになれること、いつぶりだか分からなくて、そのこともうれしかった。

と同時に、最近の自分は全然楽しめていなかったのだなと気がついた。そういえば、最近仕事以外であまり人と会わない日々が続いていた。誰からも声がかからなかったし、積極的に誰かに会いたいという気持ちにもならなかった。その間に、わたしは自分のジメジメとした価値観をずいぶん濃縮させてしまっていたのだと思う。

身の程をわきまえるとか、後先をめちゃくちゃ考えるとか、シマダさんはそんな概念をまるで気にかけずに目の前のことを頑張っていた。その自由な魂がまぶしくてうらやましかった。近くにいると、わたしの心も自然とゆるみ不思議と素直になれる。意地を張って、見栄を張っていたことがゆっくりと溶けていく。その瞬間に自分の殻はずいぶん厚くなっていたことも自覚する。何かにつけ「かっこ悪い」と思っていたことは、周囲の価値観でもなんでもなく、傷つくことを過度に恐れたわたし自身の声だった。

家に帰ってきて、かっこ悪くてもいいから、きょうも書こうと思った。意味のある内容ではないけど、とにかく書く。いつかシマダさんのように、軽快で真面目でへんで、だれかの鎧を溶かしてくれるものをわたしもつくれたらうれしい。


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