庭付き戸建てに大型犬

「死ぬまでに叶えたいことを100個あげてください」。以前誰かのつぶやきか、どこかのセミナーか、何かの自己啓発本で、そんな文言を見かけて安直に実践してみたことがある。

村上春樹に会いたい。外国に住みたい。本を出版したい。うーんうーん。親孝行したい。庭いじりをしたい。自分をなめらかに表現できるようになりたい。

実現可能性の高いものや低いもの、具体的なものから抽象的なものまでいろいろ。ただ、日々の暮らしの小さな欲求はたくさんあるのに、いざ「人生」と対峙するとその大きさに釣り合う欲望はまるで出てこず、結局数は30個くらいにしか満たなかった。おまけに、書かれたもの1つ1つを見返してみるとそのほとんどが取るに足らないようで、自分の人生がつまらないものに感じてちょっと寂しくなった。

しかし、そのなかで唯一(と言っていいだろう)「これだけは叶えたいな」と思う目標がわたしにはある。それは大きな犬を飼うこと、である。

わたしはこれまでの人生を、犬とともに生きてきた。と言っても、18歳で上京してからは犬と生活はできていないわけだけど。初めて犬を飼ったのは小学1年生の頃。4歳上の兄と一緒に、両親に「絶対散歩もお世話もちゃんとするから」とせがみ、あるとき札幌のデパートの催事場で売られていたコーギーに家族全員が一目惚れをして、うちに連れ帰ってきた(その後約束は案の定破棄され、散歩は父が行っていた)。コーギーは胴長短足なフォルムだからなのか、どの犬も長い尻尾を断尾している。だから「犬」の字から尻尾の「、」を取って、名前を「大(ダイ)」とつけた(厳密に言うと、お兄ちゃんが「ダイの大冒険」が好きだったので、そこから取った説もある)。
ダイはわたしが20歳のときに死んだ。東京にいたから、ダイの最期には立ち会えなかった。でも母の腕の中で息を引き取ったというダイの姿を、わたしは繰り返し思い返した。

2年の時を経て、静かな生活に耐えられなくなった両親は2匹目の犬を飼った。薄い茶色と白のボーダーコリーで、風のように速く走るからと父が「風太(フウタ)」と名づけた。ボーダーコリーは犬のなかでも最も賢い犬種だと言われている。しかし、大人びて落ち着いた性格のダイに比べ、風太はどこまでも幼く無邪気で弟感が強い。ダイも風太も、それぞれ違う魅力があり同じくらい愛しい。親はが子どもに持つ感情ってこんな感じ? と目を細めて思う。わたしが頻繁に実家に帰るのは、もはや風太のため言っても過言ではなく、会うたびにこれでもかと愛情を捧げている。

わざわざ言葉にするまでもなく「犬は家族」だ。だから、普段の生活も犬と一緒に暮らせたらどんなに幸せだろうと思う。ただすべての猫を愛する「猫派」と違い、「犬派」はある意味差別的で犬種の好みがはっきりある人が多い。かく言うわたしも例に漏れず、チワワやトイプードルやポメラニアンといった小さくてラブリーな犬にはそこまで興味が持てず、どうしようもなく「大きな犬」の存在に惹かれる。いつか大型犬を飼いたい。そう思いながら、グレート・ピレニーズを多頭飼いされている方のYouTubeをきょうも羨望の眼差しできょうも眺めている(「今日のルンルン」というチャンネルです)。

でも最近ふと、これは実現するぞと息巻いていた唯一の夢をわたしは叶えることができるだろうか、と不安になるのだ。大型犬を飼うためには、ある程度大きなうちに住まなければならない。たまには広い場所で走らせた方がいいから、庭か、あるいはどこかへ連れて行くために車は必須だろう。それに、いまのように夜遅くに仕事から帰る生活を続けていては、日中ずっと留守番をさせなくてはならず、ゆっくり散歩をしてあげる時間を確保するのも難しい。犬を飼うには、特に大型犬を飼育するには、それなりの環境(と時間と収入)が必要なのだ。

小さな頃、大きくなれば自然とみんな素敵な恋人ができて、誰もが結婚するのだと思っていた。それが当たり前で、疑問の余地さえ持たなかった。想定では大型犬だって飼おうと思えば簡単に飼えるはずだった。でもいまのわたしは、あれも、これも持っていない。当たり前を手に入れることの難易度の高さを、最近はとみに突きつけられている。これはわたしが厭世的になっているのではなく、ひやりと冷静な分析だ。自分の可能性への大きすぎる期待と引き換えに、歳を重ねて、「現実」との折り合いをうまくつけながらなんとか自分を肯定して生きていく技術がうまくなった。そして、それも悪いことばかりではない。

「庭付き戸建てに大型犬」。難しければ「大型犬」だけでも。さあ、わたしは実現させることができるのか。強引に奪い取るか、うまく折り合いをつけるか、やめるのか。ほとんどの人は20代にもうとっくに置いてきた夢と現実の選択や妥協の問題に、いまだ決着をつけられず、日々揺れに揺れている32歳と10カ月。


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