ウォーカブルシティを考える

 ウォーカブルシティという言葉を初めて聞いたのは、昨年2019年11月に盛岡市都市整備部の高濱部長の講演の際だった。
 盛岡市でも、ひょっとしたら随分前の話だろうか、「歩いて楽しむまち 盛岡」という、盛岡のところを変えると、どの自治体でも使用可能な汎用性の極めて高いキャッチを冠した観光パンフレットを作成・配布していた時期がありまして、内容については確かにポイントが抑えられている官製の「るるぶ」のような感じだった。
 このパンフレットのキャッチは非常によく分かる。確かに盛岡は結構コンパクトにまとまった街なので歩いて楽しんでほしい、その割には結構、歩道と車道が分離になっていないので極めて歩いていて不安があること、それから、旅行者がラゲージを転がしながら快適に歩けるほど道がフラットではなく、疲れても座って休める場所も少ない、と、実際、歩いて楽しんでほしいのは笛を吹く側で、笛の音を聞いている方はダイレクトに目的地に安い公共交通等を利用していきたいと感じるのではないだろうか、と、そういう気持ちにさえなるのは、今でも殆ど変わっていない。

 なんで盛岡がウォーカブルじゃないと感じるのか、ということを踏まえて、ウォーカブルである、という事をもう少し細かく考えてみると、ウォーカブルなハード整備の部分と、サービス等を駆使して結果としてウォーカブルな状態に持っていくというソフト整備と、2つの側面での整備が結果として足りていないからではないか、という気がしてきた。

 ハード面で言えば、個人的にプライオリティが高いと感じているのは歩車分離。昨日も書いたが現在、盛岡は雪が積もり路面もツルツルである。こういう時にでも時速30キロ制限の弊社の前の決して太くはない道路を猛スピードで飛ばしていくドライバーが多くいる。もう雪かきなどしていると恐怖である。そういう道路を子供や老人、障碍者の方も普通に通る訳で、こんなプティ・カオスな状態の道路を、歩いて楽しんでください、など、言えようか。いやまて、あるいはそういうスリルとサスペンスをこそ楽しんで欲しいと。そういう話なのだろうか。しかし、注意したいのは、スリルとサスペンスを楽しめるのは、基本的に自分の安全性が保障されている状態の場合。実際にスリルとサスペンスを図らずも味わうことになる人たちにとって、それは、楽しくは無いだろう。

 ソフト面で言えば、手荷物の扱いと休憩場所の確保。これらは厳密にはハード面も含まれているではないかと指摘を受けそうだが、個人的にそういう指摘を受けたいがために書いている文章ではないので、その辺は雰囲気でよろしくお願いします。
 手荷物の扱いについては、理想は駅で預けたラゲージが宿泊先のホテルに勝手に届けられて、自分の部屋に事前に運び込まれているという状態。この手荷物から解放された状態で初めて、何となくのびのび散策してみようかな、という気分にもなろう。そもそも、旅行の家を出てくる前にホテルに宅急便で送ればいいんじゃないの?という話もあるけれども、皆さんもそこまで段取り良く準備できたことは何回ありますかと。場合によっては出発直前までラゲージと格闘していませんかと。そういう痒い所に手が届くからこその、開放感であり、特別感、歩いてみようかなーとそういう気持ちが湧いてくるわけである。
 あとは、休憩場所については、できれば、座る場所に加えて一服できるようなそういう気軽な場所の意味合いである。そういう意味ではやはり開かれていてパブリックな空間に近く、さりとて、民間の充実したサービスがないような、ただ座れるという場所ではないと。そういう意味では、盛岡市、特にも我が河南地区に関して言えば、けもの の 「コーヒータウン」を引き合いに出すまでもなく、喫茶店が多い街。

 いやしかし、老舗の喫茶店にぶらりとはいって一服も可能といえば可能だが、やっぱり老舗のドアをカランカランとあけるのは、旅行者にとっては結構、敷居が高かったりする。そう考えると、コペンハーゲンに行ったときに公共交通が乗り放題+アクティビティやお店のクーポン+ミニガイドブックがついてくるコペンハーゲンカードというのがあったのだけれど、ツーリストにとって、あれは今考えると貴重な情報だったなとしみじみ。
 話が飛ぶけれど、もうコペンハーゲン市に関して言えば、観光という観点でのまちづくりはやめたと宣言した、なんて話もあって、そこからするとこれらの話はいささか周回遅れなネタのような感じもするけれども、でも、まあ、そういう点を地道に積み上げていった先に今のコペンハーゲンの政策として観光政策をしない、という選択肢が出てくるわけで、急にほかの自治体がマネしたなら、あぁ、やっと下手な考えをしなくなったんだな、と思われるだけである。

 と、今日はかなり長くなってしまった感じなので、この辺にしたいと思うが、いずれハードやソフトやと話を展開してみたが、大前提として、歩きたくなる理由が無い街はいくらそれをやっても仕方がないだろう。「どうして山に登るか。それは山があるからだ。」という話である。山がなければ、山には登れない、という極めて簡単な話に、わりと様々やってから気が付く、というようなコントみたいなケースは、実はすごく身近で、しかもかなりの頻度で起こっている話なのだと、私自身感じている。笑

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