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RE_PRAY:桜の木の下で

ユヅルハニュウの単独ツアー(!)が発表になって、日程を見ればそれはルヴァン決勝と同日。と、その翌日。これは一粒で二度美味しい遠征の予感!どっちも行く!という目論見はベスト8敗退で秒で頓挫。だからチケットはどちらか当たればと思って2日間両日申し込んだ。何やかや競争率高いだろうからどっちか、と思っていたら両日当たった。身の丈に合わない贅沢をすることになった。

飛行機もホテルもすっかりお高くなってしまったので、遠征とフェリーの旅を別々に考えて予算組していたのを合体させた。金曜祝日だったし仙台から新幹線で会場行って余裕で間に合うし。フェリーの早割取れたので個室使っても新幹線と合わせて18千くらいだった。

船旅はいいぞ
仙台駅ではぬかりなく
アーティストのリサイタルが如く

GIFTには行っていなかったので、単独公演を見に行くのは初めて。なのでそれまでの(単独でない)アイスショーと比べると、場の雰囲気は選手ひとりに向けられた熱気と興奮と華やかさで、正直なところ「これは私場違いでは」と思ったほどには自分の普段の趣味(暑苦しいサッカー観戦)と違う空気を感じてしまった。そしてそれは悪い予感でもあった。

コロナ期間の、声を出さずに演技を見守る雰囲気が実は全然嫌いではなかった。盛り上がるプログラムにはもちろん声を出したい気持ちはあったけども。2020全日本の天と地となんか、声援を送れない時代だからこそ味わえた完璧な世界だったぐらいに思ってる。

今は制約のなくなった会場で好きなように声を上げる事ができる。それはとてもいいことだと思う。ただ、厳かにショーの雰囲気を受け止めたかった自分とこの日の席ガチャは過去一相性が悪かった。演出を単なるファンサービスと受け止めたかのような嬌声のたびに俗世に戻される。どう見ようと人の自由だと思うけど、隣り合いたくはなかったな。

そんなわけで初日は感想を述べられるほどショーの雰囲気に入り込むことがほぼできず、酒席で友達に懇々と愚痴を聞いてもらって救われたけど、見るショーがこの日のこれだけだったらもう二度と遠征しない、テレビで見るほうがマシくらいまでは余裕で言ってた。財布的には厳しかったけど2日目のチャンスがあってよかったと心から安堵した。しかしこれで明日も同じだったら…


日曜日。
会場入りする前に前日とは違う友人達とお昼ごはん。グッズを買って開場までの間をのんびり世間話。羽生のこととか、東日本のこととか、それ以外のこととか。ショーの華やかさとは少し離れた穏やかなよい時間。

「飛蚊症なんですよねー」
「あー私も」
「飛蚊症のない目で羽生結弦を見たい」

前日に会った人達もそうだけど、みんな平昌の前からのお付き合いの方々で、平昌への4年間をともに応援して過ごした人達って戦友のようなところがある。みんな遠くに離れているのでこうした機会でもなければ会うことがまず出来ないんだけど、会うたびにありがたく思ってる。

お立ち台の見えるショートサイド

この日はスクリーンを正面に見るショートサイド側。
前日騒然となったお立ち台は目の下。
1列目にいる人達が身を乗り出して視界を確認して、2列の人に「見えなかったら言ってくださいね」と自分の後ろの列の人を気遣う。それを受けて2列めの人が3列目の私達に同じように声をかけてきた。
それはつまり、皆さん眼の前に羽生さんが来たら自分を制御できる気がしない、だから予め予告しておく、ということなのだろう。あまりにもわかりすぎる。ので、「いっそ皆で前のめりませんか」と笑って返した。

そしてそんな気遣いを見せてくれた方々は、目の前に羽生さんが現れても決して姿勢を崩さず理性を保っておられた。とても素晴らしかった。理性を保てる人達は姿勢も保てる(のか)

前日とはうってかわって両隣はソロ客で、お話をしたら北海道からの遠征仲間だった。今日も席ガチャに恵まれなくても心して見る覚悟はしていたけど、この日はショー自体を心から堪能することが出来た。ショーと書いているけど舞台と言いたくなるし、時々試合とも言いたくなる。いろんな要素が複合的に絡み合っていて、GIFTをコンパクトにして、よりブラッシュアップさせたような、そんな氷のステージだった。


リンクを縦長に上から見るのが好きなのは、背景が客席にならずに氷になるから。
氷のキャンバスの上に筆を滑らせるようなスケーターの動きは、ライブドローイングを見るかのよう。
ピンスポットに照らされて演者の影ができることがそれを現実の世界のものだと証明するけど、もしそれがなかったら氷の上に描かれている絵の一部に完全に融け込んでいるような、立体なのに立体じゃなく見える、実存の身体を繰って動いているとは思えない、光と遊び、光を追う、現実味のない、2次元と3次元の中間。
見ているだけなのに喉が乾いていく。

四角く囲われた布は、見る場所によって全く違う表情を見せていた。
囲われる不自由、囲われぬ不自由。
誰かには虚無に見えても別の誰かには達成に映る。
解放にも、孤立にも、どちらにも見える。
Playerと見る。Prayerと見る。
見る側がそれをどう見るか。
委ねる。委ねられている。
決めるのは、あなたであり私。
そしてわたしや貴方が決めたものは、わたしや貴方の真実であって万人の真実ではない。彼の真実でもない。

赤く狭く区切られた直線の中からはみ出さぬように生きる。
そして枠を超える。
同じように区切られた直線は後半は色を変えて、さっきまで描いていた氷の軌跡が羽根の模様のように輝いてる。


タイトルも作家の名前も覚えていないけど、学生の頃に友人がとても熱心に勧めてくれた漫画があって、「今まで現実だと思っていたことがある日突然崩れ始める、オチはそれが死産する胎児の夢でしかなかった」という割と救いようのない筋立てだったと思うけど、そのことを思い出した。

自分たちが現実だと思っているものは、実は誰かの夢なのではないか。
現実と夢の間の境界線は本当はどこに引かれている?そもそも存在する?

曖昧な、寛容な、それでいて屹立していて断固とした、そんな世界。
相反するものを内包する、いつもの羽生だ。

桜の花が咲いている。
その花をただ愛でる人、花の構造を詳しく観察しようとする人、花の絵を描く人、花の物語を書き始める人、花に触れようとする人、花を持ち帰ろうとする人、花を育てる人、花の下で宴会をする人、様々な人の姿がそこにはある。桜の花はそのどれをも拒絶はしない。受け入れもしない。ただ花として咲き続けてる。


というわけで桜の木の下で宴会やる系のファンです

2日間の舞台をそれぞれ全く違う方向から見た時、ショートサイド上方から見下ろす時はより2次元に近くなり、ロングサイド上方からは立体感が増す。この舞台はショートから見るのが正解かなと思ったけど、実際に見てみると「おそらくどこから見ても印象が変わるのでどこで見ても正解、映像もまた正解」なんだろうと思う。
それがわかったので、やはり行けてよかったと思いました。
また頑張って次の遠征に行けるように働いて稼がなければ。


以下雑感書き足し

・君はランタンを見たか
2日目のショートサイドで見たレクイエムは、天井から吊り下げられたランタン(灯籠のイメージでもあるのでしょうか)がそれはそれは美しく、昨日はこれ無かったよなあ?まあ昨日と今日とで違うんだろうなって勝手に納得して、終演後の友との酒席で「レクイエムの時のランタンきれいだったよね~」「ランタン?」「あった?」「知らない」
それだけ演技に集中して見ていたということなんだね~ってその場は済んだ。帰宅して初日の録画を見た。ランタンあるわ!!ロングサイドで見てた私の目にまったく映ってなかったよランタン!!信じられん!!

・選択の話
日々の小さな判断と選択の繰り返しで未来が作られる、って意識してる人あんまり多くないんじゃないかなあって思いながら話を聞いていた。何食べようかな、どこで食べようかな、どこで買おうかな。そんな些細な選択の積み重ねで今の社会が作られているんすよね。ちょうどこんな記事を、ホントそうだよなあって思いながら読んだばかりだったのでなかなかタイムリーだった。
自分の「選択」をどう使うか、あらゆる場面で意識することはさすがに難しいと思うけど、ちょっとでもいい方向に出来る選択ができればとは思います。だんだんショーの話からずれてきたぞ(通常運転

・赤の破滅と黒Originの記憶
2日目の席は2019ワールドの時と似たような位置関係だったので(当時は500LVだったけど)、試合仕様の「破滅への使者」を見ていたらその時の記憶が蘇ってすごいグッと来た。競技会を引いてもあの時と違っていて変わらないものを見られているんだなあって。自分の脳内には2019年の黒い羽生さんと今回の赤い羽生さん、ふたつの背中が並んで合成されています。

・水面の上と下
これはショートサイド上方から見るのが良かったプログラムでした。照明の光で薄い雲海が重なって半透明にぼやけたような世界になって、その間を縫って滑っていく様がちょうど水面の下の魚のように見えて。幻想的。ロング上方から見るとプロジェクションマッピングの水面が純粋に綺麗で、こっちだと水面の上って感じでした。それもまた幻想の世界。
今日出社するときに川の上で鳶がくるりと輪を描いているのを見上げていたんですけど、これと似ていたなあっても思いました。

・ゲームとPC黎明期
近年までほとんどゲームをやらない人だったので馴染みがなかった。のに、思ったよりとても響いてしまったのは、レトロゲーム自体が自分の90年代のPC環境を思い起こさせたからな気がします。
ショーの最後、8ビットの解像度の低い大きな木の投影が、ドットがめくれるに従って令和の解像度で投影された場面は、ゲームのみならずコンピューターの歴史そのものの一端を見るような思いがしました。
昔はここまでしか出来なかったことが、今はここまで出来る。というメッセージがあったかなかったかは知らないですが勝手に受信しました。

「音楽が可視化された」ような演技がすごく好きなんですよね。音楽の、メロディラインそのものだったり、またはその音楽が表現する物語だったり。羽生さんはメダルをいくつも獲った実績の高い選手であるけれども、それ以上に彼の演技の「音楽の可視化」が好きなんだなあと今回謎に実感しました。ジュニア世代もよく見てるんですが、ジャンプが跳べなくても音楽表現に優れた選手にとても魅かれる理由も自分で納得。今気づいたのか。今だよ。

ゲーム音楽を可視化させた今回のショー、PC黎明期でもある80年代~90年代とゲーム初期から携わっていた人達は、ゲームがこうした別の世界のクリエイティブを生むとは思っていなかったんじゃないかなあ、とちょっと思いました。
東京五輪のときにも「ゲーム音楽がこんな評価をされるなんて…」という投稿を当時たくさん目にしましたけれども、今回のこの舞台も、ゲームはひとつの芸術作品なんだと、ゲームファンが別分野で昇華させた舞台だと思うので、ゲームファンにたくさん見てもらいたいなぁとも、思いました。


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