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善には、「功徳(puñña)」と「善行為(kusala)」の2種類がある

「善い行い」とは、いったい何だろう? 仏教は2つに区別する。①功徳行為(puñña)と②善行為(kusala)だ。2つの違いを理解すると、人格向上に役立つ。

功徳(puñña)

功徳行為とは、一般に善行と考えられているもの。困っている人を助ける、地域のボランティアに参加する、環境問題に取り組む、犯罪被害者のために寄付するなど。その特徴は、どれほど頑張っても完成できないことにある。たとえば、湯水のように資金をつぎ込んでも、感染症のパンデミックは根絶できないだろうし、感染症の問題を解決できたとしても、貧困・差別・公害・環境破壊などの社会問題が世界から消えることはない。ソーシャルビジネスに死ぬほど熱心に取り組んでも、助けられる人の数や、解決できる課題には限りがある。人間の力には限界があるから、功徳行為は完成できない。

仏陀は、無限の過去生の中で、菩薩として余人には決して真似できない功徳行為を行い、苦しみを乗り越えるために必要な性格(pāramī、波羅蜜)を完成させた。菩薩には、「徳を積んで、良い環境に恵まれたい」とか「死後、天国に生まれ変わりたい」などの欲求はなかった。純粋に人々を助けたいと願い、功徳行為を行っていた。解脱のために必要な性格は10項目あるとされる(Dasa pāramī、十波羅蜜)。

① Dāna(giving)布施:他を助ける、他に協力する  
② Sīla(well discipline) 持戒:道徳を守る  
③ Nekkhamma(selfless)離欲:世間の欲に惹かれない  
④ Paññā(insight) 智慧:真理を発見する  
⑤ Viriya(diligence)精進:目的に向かって着々と進む  
⑥ Khanti(patience)忍耐:目的に達するまであきらめない  
⑦ Sacca(honest) 真理:嘘を言わない  
⑧ Adhiṭṭhāna(determination)誓願:優柔不断でない、覚悟がある
⑨ Mettā(friendliness)慈悲:生命を慈しむ  
⑩ Upekkhā(equanimity)捨:感情的にならず、落ち着いている

善行為(kusala)

善行為(kusala)とは、人格を向上させること、理性を育て、正しい判断能力や観察能力を身につけること。善行為は、功徳と違って完成できる。そこで仏教は、功徳行為から善行為に進むよう説く。五戒の一番目、「不殺生」(生命を殺さない)を例にとると、功徳行為は、次のように善行為へと進化させることができる。

① まずは殺生をやめる
とにかく「生命を殺すことをやめる」という行動から始める。蚊やゴキブリを殺したいと思っても、我慢して殺さない。我慢して、踏ん張って殺さないという段階だから、ストレスがたまる。これは功徳行為にとどまっている。

② 理性を駆使して、命の尊厳を理解する
次に、命とは何かを勉強する。すべての生命は「生き続けたい、死にたくない」と切望している。人類はもちろん、微生物からクジラまで、蚊、蠅、ゴキブリにも、すべての生命に生きる権利がある。「すべての生命に尊厳がある。命の尊厳を守る行為は素晴らしい」という理解に基づいて不殺生戒を守ると、行為のレベルが上がって、善行為への変化が始まる。友人から魚釣りに誘われても、「魚にも生きる権利はある。私は命の尊厳を守って釣りはしない」とストレスなく言えるようになる。

③ 命の尊厳を守ることが自然になる
「すべての命の尊厳を守るのは素晴らしい」と理解して、その理解に基づいて行動を続けると、他の生命の尊厳を自然に守れるようになる。功徳行為であると同時に、善行為の実践になっている。

④ 「自我の錯覚が殺意を引き起こす」と発見して、自我の錯覚をなくす
さらに進んで、なぜ殺意が起こるのかと心を調べる。すると、自我があるからだと発見する。「私は存在する。したがって他者も存在する」という前提で生きていると発見する。次に「私は存在する」という実感は錯覚だと発見する。自我が錯覚だと発見するには、「私が、自分が」ではなく、「この生命が」と見る。他者は「あの生命」と見る。「あの人は有力な政治家だ、大企業の経営者だ、人気のある芸能人だ」と考えるとストレスが溜まるが、「自分も他人も、ただの生命だ」という実感で生きるなら、大勢のエリートを前にしても緊張せず、普段どおりの調子で話せるだろう。

⑤ 不殺生を完成する
「生命を殺さない」といっても、環境のなかには無数の生命が存在する。だから功徳行為は完成できない。しかし、善行為は完成できる。自我は錯覚だと発見して、心に殺意が起こらなくなったら完成だ。不殺生戒の完全版をみると、仏陀は「善を完成させる」という目的をもって戒を説かれていることがわかる。

pāṇātipātaṃ pahāya pāṇātipātā paṭivirato hoti 
nihitadaṇḍo nihitasattho, lajjī dayāpanno 
sabbapāṇabhūtahitānukampī viharati.

殺生をやめて、不殺生に基づいた生き方をする。
他に害を与える警棒、他を傷つける武器を一切持たず、他をいじめることを恥じて、優しい気持ちを育てる。
すべての生命の幸福を願う、憐れみを抱いて生きる。

戒律を形式的・儀式的に守るだけでは、善行為には進めない。功徳行為のレベルで終わってしまい、智慧は現れない。智慧が現れなければ、善は完成できない。仏教の戒律は、功徳行為から善行為に進んで、智慧を育て、善を完成させる目的で実践するもの。戒律をいくつ守るかは個人で決めてよい。

たとえば、自らの心にある物質に対する執着を戒める目的で布施行為をすると、功徳行為であると同時に善行為にもなる。善行為によって心が清らかになり、智慧が現れ、人格が向上する。善行為を行う過程で功徳も貯まるから、善行為は功徳行為より優れている。

多くの功徳を積みながら、客観的に現実を観察すれば、智慧が現れる可能性がある。「困っている人々の面倒を完璧に見ることは、いくら何でもやり切れない。生きることそのものが苦なのだ」と理解していくと、善行為になり、心は落ち着く。物事を理解するとは、智慧が現れたということ。智慧が完成すれば、生きる問題はすべて終了する。仏道の本質は、功徳行為+善行為を実践して「智慧を育てること」なのだ。

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