意味のないことに、意味を宿す

ちょっとアウトプットしたくなったので、noteを書いてみようと思います。

昨日、奈良の畿央大学でイベントがありました。風越のとっくんから誘われて、葛原君と僕とで、若手や学生の方対象におしゃべりしてきました。

「働き方について話してください」と言われていたのですが、個人的に「教育の生産性うんぬん」の話しに飽きが来ていたでの、少し(だいぶ)違った角度でアプローチしました。ごめんよとっくん。

飽きというよりかは、「疲れ」と表現した方が正しいかもしれません。

「意味のないことをやめよう」と、今まで発信をしてきたわけですが、それって本当に正しいのか?という疑いを、今、強く持っています。

だって、人類史をみてもそうなんです。ある程度の安定を得た多くのヒトは、意味のないことをはじめたんです。

歌ったり、踊ったり、洞窟の壁に落書きをしたり。

それって、多分誰かが意味はないけど始めて、後からそれに意味を宿していったのではないでしょうか。

2万年前の氷河期、意味もなくラスコーに落書きをしていたクロマニョン人。

現代の学校で、意味のないことを排除して定量的な勤務時間をシビアに測る学校人。

果たして、どちらが豊かなのかというと、うーん、となってきます。 

意味のないことに目を向ける

画像1

昨日の打ち上げは、とっくんのオカンのスナック「ドロップキック」で行われました。

そこで一つのキーワードとなったのが、「散歩」

何かとっくんのクラスでは、散歩をしているらしい。

ここにものすごい豊かさを感じた。

何か「問題」があって、それを「解決」するという学習に対する疲れ。

その揺り戻しとしての散歩。別に何の問題もないけれど、散歩して何か「気づき」を拾いに行く。そこで気づいた意味のないものに意味を宿していく。

ドラム缶を見た子が、あれでゴエモン風呂をしたいってなった話がすごく好き。目の前にドラム缶には何の意味もない。そしてそれでゴエモン風呂をすることにも意味はない。間違いなく、お家のお風呂の方が楽だ。でも、ゴエモン風呂に意味を宿すことって、絶対おもしろい。


樽のボールペン


画像5

この前、こんなペンを買いました。

グリップのところが、ウイスキーの樽でできているんです。僕の住んでいるところがウイスキーの産地ということもあり、「何かいいな」ってなって、「買う」という行為にいたったのです。

この「何かいいな」ってのが、令和におけるキーワードとなってくると思っています。

なぜなら、今の時代、ほとんどの製品は行くところまでいっていて、差別化が難しくなってきている。

「ペン」という製品には、過去「価格」や「性能」といったさまざまな問題があった。ペンの走りである万年筆を作った人が、契約サインの時、その万年筆が液もれし、契約が破談になるというエピソードは有名です。

そんなさまざまな問題を乗り越えてきた今、どこもかしこも同じような商品が並ぶようになった。どんどん問題が消滅していったからです。おそらく、今の子どもたちが生きる未来は、そんな状況がより進行しているはずだと思う。我々が、豊かな暮らしをしようと日々努力し、生産性を上げてきた結果、問題がないがゆえの息苦しさや閉塞感が蔓延してきているという皮肉なネジレが起こっているのです。

そんな中、誰かが「グリップに樽を使ったらいいんじゃね?」という突飛もないアイデアを出した。(のだと思う)

おそらく、樽を使うと機能的にも価格的にも、既製品よりもマイナスをもたらしてしまうでしょう。でも、この「何かいいな」ってのは、それらを凌駕する魅力を持つこととなったのです。万人には受けないでしょうが、少なくとも僕には刺さった。ボールペンに樽という全く意味のないことに誰かが意味を宿し、「何かいいな」を周りに広げていくことにより、価値を付加していく力って、これから大事になってくるんじゃないでしょうか。

ジェネレーターとしての在り方


「何かいいな」を周りに広げていく在り方がジェネレーターなのかなって、とっくんの話を聞いて感じました。

ティーチャーでもなく

働き方×在り方×生き方改革.001


ファシリテーターでもなく

働き方×在り方×生き方改革.002


ジェネレーター

働き方×在り方×生き方改革.003


ここを話し出すと、あと1万文字ぐらい必要なので、ふわっと終わります。