夜と昼、そして朝。

 今、家の外は真っ暗、つまりよるだ。
時計の周期的な音しか外界から聞こえてくることばない。
夜という時分は、自分という内界の音がメインなのだと思う。自分が内界から何かを発信しなければ、それが外界に届くことはないし、外界からくる刺激はほんの少量のものだ。朝、は逆と考える。自分の内界に関わらず、外界からの刺激が自分の内界に向けて絶え間なく発信される。昼はどうだろうか、外界からの発信は、内界に届き、逆に自分の内界の情報を外界に発信もする。
 太陽系の地球という惑星で見た場合、このサイクルは、生物全体に適用される。
 では、この朝、昼、夜の三種類は、一体いつどの瞬間に区分されるのだろう? ふとそんなことを夜の静けさ、暗さと共に考えている。。オイラーの等式は、代数学、幾何学解析学の数学の基本が、その短い数式に出現するため、とても美しい。これと同じことが夜、朝、そして昼にも言えるのでは、無かろうか? 一つの道を極めた美しさ、全てのものを丸く納めた美しさ、そのどちらも、美しく、どちらの方が美しいなどたいうのは、恐らく不毛なものなのだろう。 
 この社会はどうなのだろうか。尖った美しさ、多様性の美しさわそれぞれ個別に評価することに、我々は成功している言えるのだろうか? 私には分からない。全てを収束される美しさと、一つわ極める美しさがあるならば、その間間の世界はどうなっているのだろうか? 

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