中村米吉のナウシカが見られる幸せ

同時代に生きていて幸せだった、というほかない。
当代一の女方が演じるナウシカなんてものが見られるのだ。あの時 死んでいたら、見られなかった。
米吉は当代一である、という言い方は支持されないだろうけど一面では覆せない真実であって、要は覆せないほどにナチュラル・ボーンな美しさを持っているのです、つまり覆せないのです。
ただ歌舞伎界の過去にこういう例がないと言えば嘘だとは思う。時蔵が10代の頃は、今の米吉を凌ぐ美しさだったろう。

女方を"芸"で評価するのは一度よしにしませんか?

一目見て「うわ!」と思うほどの美しさ。そういうものを軸にして、まさに虚心坦懐に見てどうか。
確かに、彼の芸は多少稚拙かもしれない。ただ"存在"としてどうか。

最終的には好みなのですが、役者の商品価値というものは、その存在自体にあるべきべはないか?と思うのです。
芸の旨い下手は(一部の下手すぎる人々を除いて)正直あんまり気にしない(一部の下手すぎる人々を除いて)芝居をぶっ壊すほどの下手(一部の下手すぎる人々は本当にぶっ壊すよね)でなければ、あまりヤイノヤイノ言うことではないというか。

で、まあ好みですよね。

七之助も素晴らしいし、壱太郎も素晴らしい。もちろん、菊之助は若手のフラッグ・シップとして偉大な存在だ。
ただどうしても「おじいちゃん」を愛でることができないのです。老父が御姫様の格好をしていても、そりゃおじいちゃんなのだ。それを"芸"なんてものでカヴァーできるわけがない。art は nature に勝てない。
分からない人には一生分からないというか、分からない人は”一生分からない態度をとる”のだろう。自分のセクシャリティを受容できないってのが、本質的な問題だと思うんだけど。

言いたいのは「劇評なんか読むな」です。

他人が評価してから見に行くな「すげーもん」はあっという間に駆け抜けてゆく。中村米吉のナウシカっていうのは、その代表のようなものでしょう。
20代の米吉を、見ましょう。

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