河野太郎は『宗旨替え』をする度に総理に近づく。そして総理になるために必要な『最後の宗旨替え』とは何か?

 今では信じられないが、以前の河野太郎は Twitter には否定的であった。しかし2010年に孫正義に勧められ宗旨変え、現在では政治家としては最多の 242万人のフォロワーがいる。
 また 2015年に行革担当大臣になった際には、外務省の在り方に対して大変批判的であったが、これも2017年に外務大臣に就任すると改めた。
 Twitter の活用で国民からの人気が爆発。外務大臣としての活躍からその実力を示し一躍、総理・総裁候補の大本命になりおおせる。
 河野太郎は「Twitter」「外務省」と宗旨替えを行う度に総理に近づいている。普通は変節すれば評価を落とし人気も失うものだが、それが逆になるのは何故か?

 それは国民が、党でも政策でもなく、河野太郎という人物を信頼して支持しているからであり、またその宗旨替えが適切な判断であったと評価されるからである。
 しかし先の総裁選では本命視されながら、ついに総理総裁になる事ができなかった。
 河野氏に足りなかったものは何か?
 私はこれを財政政策だと考える。
 河野太郎が総理に成るために、果たすべき最後の宗旨替えとは「反緊縮」への財政政策の転換である。

 護憲、選択的夫婦別姓制度への反対、靖国神社参拝、男系天皇制の維持、河野談話の撤廃、そして反緊縮。
 これらの政策には、固定的な支持層があるため、選挙に弱い政治家がよく掲げている。
 しかし、私に言わせれば「反緊縮」以外はすべてイデオロギーである。
 そうである事が社会や国家に寄与する訳ではない、それに意味や価値があると信じている人達が、そうするべきだと主張しているだけである。
 最近では、イデオロギーとは言わずに「国家観」と言う。イデオロギーや国家観は科学ではない、主義主張、もっと言えば「趣味」とも言えるだろう。趣味と言ってしまっては身も蓋もないというなら、文化・宗教とでも称すればいい。

 しかし「反緊縮」こそはマクロ経済学に基づいた「科学」なのである。
 科学とは、病気が治り、鉄の塊が空を飛ぶものである。価値観の話ではなく、すべての人たちに恩恵があり、国家に寄与するものなのである。
 ところが誠に残念な事に現在の日本は、反緊縮とは真反対の「財政再建のための緊縮政策」が信奉されてしまっているのである。現在の日本で、緊縮政策が取られる事は非科学である。そしてこの非科学を狂信し、推し進めているのが他ならない財務省なのである。

 私としては、コロナ・ワクチン担当大臣として、反ワクチンという非科学と戦った河野太郎が「財政再建のための緊縮政策、いずれは増税も辞さず」という非科学の立場である事が歯がゆくてならない。
 だが逆に、この緊縮という空気に支配された日本を変えてくれるのも、河野太郎ではないかと期待してやまない。
 河野氏が反緊縮へと宗旨替えをしてくれれば、それはアベノミクスを掲げた安倍晋三元総理以上の恩恵を、日本へもたらしてくれると確信する。

財政再建のための緊縮という「狂信」

 日本は、原子力村の「利権」に支配されている。
 原発には初めから無理がある。日本の隣国が今年に入って何発目のミサイルを放っただろう?このミサイルが誤って原発の上に落ちたら?
 また日本は地震大国である。大震災級の地震が原発を直撃したら?
 2011年の東日本大震災を、もう忘れてしまったのだろうか?
 よく原発がないと電気料金が上がると懸念されるが、それをミサイルや大震災が原発を直撃する事と、秤に掛けられるのだろうか?
 しかし原子力村の利権に、ばら撒かれた金によって、与野党も、マスコミも、労働組合もすべて原発推進派に染め上げられているのだ。原発に反対するのは、頭のおかしい無責任な偽善者だ、左翼だ共産党だとのレッテルを貼られて議論すらできない空気に支配されているのだ。

 同じように日本は、財務省の財政再建のための緊縮政策という「狂信」に支配されてしまっている。やはり同じように与野党も、マスコミも、労働組合も、すべて財政再建派に塗り潰されているのだ。
 世界で日本だけが、デフレが25年も続いている。他の国では財務省にあたる機関がマクロ経済学を基に、国の経済・財政政策をコントロールしているのでそんな事にはならない。

 物価が上がらずに下がり続ける事がデフレ。消費者の立場からしたら物価が上がらない事は、望ましいのでは?と考えてしまいそうだが、そうではない。
 なぜ物価が下がり続けるのかと言えば、それは物が売れていないからであり、物価が下がったにも関わらず売れないので、さらに下がり続けるのだ。
 物が売れなければ、企業の利益が上がらず皆の給料も下がる。リストラされ失業者が増える。企業が倒産してしまえば、さらに失業者が増える。その負のスパイラルが延々と続いたのが、この25年のデフレなのである。
 先進国・経済大国であった日本は、そのかっての豊かさの大半を失いつつあるのだ。

 ではどうすれば良いのか?
 実はそれはとても簡単で、政府がお金をばんばん刷って国民に配れば良いのである。国民の懐にお金がたくさんあれば、皆が物を買うようになるし、そうすれば企業も儲かり皆の給料も上がる。人手が足りなくて雇用も増えて、失業者も減るだろう。つまり景気が良くなってデフレを脱却し、緩やかな物価の上昇を描くマイルドなインフレへと移行できるのである。

『政府がお金を、ばら撒けばいい?そんな馬鹿な、日本には1200兆円もの借金があり、ばら撒けるお金など無いのだ。むしろ政府の財政が破綻しないように、政府の支出を絞り(緊縮)、増税を検討しなくてはいけないのだ…』
 そう、これこそが財務省の「財政再建のための緊縮財政」という「狂信」である。

なぜ政府が、お金をばら撒けばいいのか?
にも関わらず、それをしないのはなぜか?

 私も長らく「政府がお金を、ばら撒けばいい」という主張が理解できなかった。
 そんな馬鹿な。そんなものは「トンデモ経済学」の類だろうと考えていた。
 いや違うのだ「日本政府がお金をばら撒けばいいし、それでも財政破綻などしないのだ」これはトンデモ経済学などではなく、マクロ経済学の見解であり、マクロ経済学こそ科学なのだ。アダム・スミス以来200年かけて積み重ねられた知の結晶なのだ。

 もし今の日本で、マクロ経済学で説明のつかない事態が起きているのなら、なぜ世界の経済学者は、日本を研究し論文を書かないのだろうか?それが経済学を革新して大変な名誉となるだろう。
 しかし実際には、世界のノーベル賞級の学者からは「なぜ日本はマクロ経済学に則った政策を実行しないのだろう?」と言われているのだ。
 それも25年もだ!
 逆に「このままでは日本が財政破綻してしまう」と主張される方に、ノーベル経済学賞の取れそうな経済学者がいるだろうか?

 私は、経済学者でもエコノミストでもない。専門家でも科学者でもない。マクロ経済学とは何か、説明してみろと言われても厳密には説明できない。にも関わらず、政府がお金をばら撒けば万事解決という事が理解できる。これは決して難しい話ではないのだ。誰でも理解できるし、何なら子供でも(中学生以上なら絶対)理解できる話だと思う。
 にも関わらず、そんな事をすれば日本の財政が破綻してしまうと信じ切っている方たちがいて、それが他ならない財務省であり、財務省が作った空気の支配を受け入れてしまっている方たちなのである。
 そして、いずれこの狂信が、日本という国を後戻りできないほどに破壊しつくしてしまうのだ。

なぜお金を増やせるのか?
あるいは、なぜ増やせないと考えるのか?

 経済学・経済史的な厳密さは、煩瑣を極めるので(もっとも私にはそれだけの知見も無いが)とりあえずは、ここでは横において、広く大勢の方にも理解できるように考えてみよう。

 大昔お金が無かったころ、人々は物々交換で経済活動を行っていた。しかし物々交換であると、自分が相手の欲しい物を持っていない際に、取引に応じてもらえない。そこで人は「誰でも、いつでも欲しがる物」を媒介にして取引するようになった。初めは、米や麦などの主食であったろう、米の量を加減して取引をするようになり、これがお金と価格の始まりである。

 しかし、米をお金として流通させるには不都合も生じる。腐らしてしまう場合もあるし、また極端な豊作になった場合は物価が上がってしまい市場が混乱する(極端なインフレになってしまう)。
 そこで米や麦に代えて、貴金属(金・銀・銅など)が用いられるようになった。つまり金貨や銀貨、小判や銅貨などである。これなら腐らないし、もともと希少な金属なので物価が上がる心配もない。
 しかし、貴金属にも問題が生じた。重いのである。重いと取引のたびにそれを運ぶコストが生じ経済活動の妨げになってしまう。
 そこで紙の紙幣が作られるようになった。紙だと取り扱いの初めの頃は信用がない、そこで紙の紙幣は一定の金と交換できると定めて取り扱い始めたのだ。

 しかし、ここにも問題が生じる。金との交換を定めているので、金の残量しか紙幣を発行できない。国が豊かになり多くの商品を供給できるようになっても、市場に紙幣が少なすぎるので物の価格が上がらず、物価が下がり続けるデフレが生じてしまうのだ。
 さあ、どうしたら良いのだろうか?

 ここでお金の起源を遡って、もう一つのパターンを考えてみよう。
 人々が物々交換で経済活動をしていた時代、相手と交換する物を持ち合わせていない場合、どうしていたのか?
 漁師が魚を提供し、交換で農夫が野菜を提供していた。だが野菜が収穫できるのがもう少し先になる、その場合の農夫は漁師に対して約束をするのだ「野菜が収穫できたら提供させてもらうので、先に魚をもらいたい」と、もちろん農夫は約束を必ず守る。そうしないと、もう二度と取引に応じてもらえないからだ。漁師の方も魚が大量に釣れたのに、消費できずに腐らしてしまうよりは農夫に提供して将来の野菜を確保できた方が好都合だ。そこで取引が成り立つ。
 この約束を、先々で齟齬が生じないように書き記した。後世では紙に記したろうが、紙の無い時代には、木や竹に刻んだだろう。ここではそれを証書と呼んでおこう。
 さて農夫はこの「証書」をどれだけ出せるだろうか?
 それは収穫できる野菜の量までだ。
 また漁師が、たとえば布を欲したとしよう、機織り師に魚を提供できれば布と交換してくれそうだが、あいにく魚がまったく取れなかったとしよう。どうしたらいいだろうか?
 農夫から受け取った「証書」を機織り師に渡せばいい。機織り師は、時期が来たら農夫から野菜を提供してもらうだろう。これで3者の取引は滞りなく成立するのだ。

 この「証書」が、お金のもう一つの起源である。その「証書」があれば、いずれ価値ある物、自分が欲しい物を手に入れられるのだ。
 米や麦、金や銀を、お金としていたのは、それ自体に「価値」があったからだ。この「証書」の場合は何か?それは「信用」である。先ほどの例でいえば、農夫が野菜を提供してくれる事が信用できるのなら、その「証書」はお金として機能するのだ。

 ここで話を戻そう。金との交換でその価値を保証していた紙幣は、金の残有量しか紙幣が発行できないため、国の経済が発展するといずれ紙幣が足りなくなってデフレが生じてしまう。ではどうしらいいのか?
 金と紙幣とを切り離すのである。切り離しても、紙幣で金を購入する事はできるが、その交換比率はそれまでの固定ではなく、市場に委ねられた自由価格となる。そうこれで、金の残有量にとらわれずに紙幣を発行できるようになった。
 では、紙幣はどこまでの量を発行できるのだろうか?
 先の話にあった農夫が「証書」を発行できるのは、自分が提供できる野菜の量までであった。それ以上を出すと「証書」と交換する野菜が無いので、一気に信用を失い取引できなくなってしまう。では政府の発行できる紙幣の上限とは?
 それは国内で…
 国民が提供できる商品・サービスの総量の価格分だけ、紙幣を発行できるのだ。もしそれを超えて紙幣を発行し過ぎると、商品に対して紙幣が多過ぎるため、商品の価格がどんどん上がっていく事になる。それでも紙幣を供給し続けると、物価がどんどん高くなり、インフレが止まらなくなり、やがてはハイパーインフレになってしまうのだ。
 もちろん、国内で提供できる商品・サービスの総量なんて誰にも分からない。そこで少しづつ紙幣を増やして供給していき、インフレ率が2~5%ほどで止めたら良いのだ。

 政府が紙幣を供給するのに、なぜ国債を売るという工程を取るのかというと、市場に紙幣が多くなり過ぎないために、後に税金で紙幣を回収するという工程を予め設定するためである。
 逆に言えば、市場に紙幣が多くなり過ぎないのであれば、国債を売るという過程を設けずに直接、政府が紙幣を発行してもいいのだ。いわゆる政府紙幣と言われるものである。もちろん実際にやるには法改正が必要だが、前提として、それは不可能ではないのだ。

 お金は、無から、政府が作り出せる事ができる。
 『極端なインフレにならない限り』、いくらでも供給できる。
 しかし、なぜかその事に抵抗を覚えてしまう。
 なぜそれに抵抗を感じるのかと言えば、お金を米や麦、あるいは金や銀の代替物だと考えているからだ。無から米や金を生み出す事ができないようにお金も増やす事はできないと考えているのだ。
 『お金を、米や金貨の代替物だと考える』素朴な思い込みを、捨ててしまえばいいのだ。
 政府の発行するお金とは「信用」なのだ。
 農夫は、自分が供給できる野菜の分までは「証書」を出す事ができる。
 政府も、国内で提供できる商品・サービスの総量まで、お金を発行する事ができる。
 その上限を図るのがインフレ率だ。インフレ率の2~5%までだったら市場にお金を供給しても問題ないし、むしろ25年もデフレが続いている日本では、それは絶対に行わなくてはならない政策なのだ。

アベノミクスは正しかった?

 アベノミクスこそは、日本の経済・財政政策に大々的にマクロ経済学を取り入れた政策であった。アベノミクスは正しかったのだ。
 しかし、アベノミクスの3本の矢である、
 ①異次元金融緩和
 ②機動的な財政政策
 ③企業投資を喚起する成長戦略

のうち②財政政策③成長戦略が十分でなく、加えて2度の消費税の増税がアベノミクスにブレーキをかけてしまったのだ。おそらく財務省が「狂信」から抵抗したのであろう。
 2度の増税がなければ、まったく違った光景が見られたであろう、あるいは増税したとしても、それをも超える財政出動を行えば、やはり違っていただろう。
 今現在でもそれは有効で、減税を行うか、大型でかつ継続された財政出動を行うか、あるいはその両方を行えばいいのだ。財源は国債を充てれば問題ないが、これ以上借金を増やしたくないと言うのであれば、法改正を行い国債に依らない政府紙幣の発行で財源を賄えばいいのだ。

「新しい資本主義」と「サナエノミクス」

 先の総裁選で、岸田文雄氏と高市早苗氏とが、アベノミクスを継承する財政政策を掲げた。総裁選前のテレビ報道では、岸田・高市両氏の方が低調で、石破氏・河野氏の方が有望であるとの報道が繰り返された。これは財務省がマスコミに働きかけた結果であろう。
 財務省の目標は、財政再建・緊縮財政・増税も辞さずという事である。それに対して、岸田・高市両氏がアベノミクスを継承する積極財政(反緊縮)を主張したので、総理に成られては困るとなったのだろう。
 それよりかは、石破・河野の両氏の方が御しやすいと財務省が考えた訳だ。石破氏は立候補すら見送ったのにだ。

 われらの河野太郎が、財務省に御しやすいなどと舐めた見方をされるなど屈辱以外の何物でもない。噴飯ものである。
 河野先生には、ぜひ「反緊縮」に宗旨替えをしていただいて、財務省を締め上げてもらいたいものである。

 しかし、岸田氏も高市氏も、総裁選の1年ほど前までは、財政再建の緊縮派であったはずだ。石破氏や河野氏ともさほど違いは無かったはずだ。それがいつの間には積極財政派に宗旨替えをしてしまっている。
 岸田・高市両氏は、安倍内閣が退陣した際に、内閣や党の役職から離れた。そして菅内閣の約1年の間に、次の総裁選に向けて自身の政策を磨くのに十分な時間を充てたのだ。
 総裁になるためには、安倍晋三氏の支持は是非とも取り付けたい。そのためにはアベノミクスを継承して積極財政を掲げる事が望ましい。また有力な総裁候補である石破氏・河野氏との差別化も図る事ができる。
 また岸田文雄氏には、岸田派・副会長であり政界きってのリフレ派の議員である山本幸三氏がアドバイスしたであろう。
 河野太郎氏においても先の総裁選前に、十分な時間があり、身近に助言する人物がいたら、積極財政派としての財政政策をまとめられたかもしれない。これはわずかな巡り合わせの差であろうし、もし河野氏が財政政策についての宗旨替えを行ったのなら、そのインパクトは岸田氏や高市氏とのそれ以上のものになっていたであろう。

 そして岸田文雄氏が総理となって「新しい資本主義」が施行された。まだ未知数な面もあるが、積極財政という点から言えば非常に物足りない。
 「令和の所得倍増計画」であったはずのものが、すっかり鳴りを潜めてしまった。おそらくまた財務省の抵抗に押し切られてしまったのだろう。まったく持って残念である。

では具体的にどうすればいいのか?

 長くなってなってしまったので、ここから駆け足で、どんな政策を掲げるべきか、私の考えを主張したい。
 私が主張するのは2点。
①国民1人あたりに2000万円を配る
②消費税を25%にする

 こんな事を主張するのは、世界でも私1人だろう。
 政治家でも職者でもないので、こんな主張も自由にできるのである。続けて、もう少し説明を加えよう。

BI(ベーシックインカム)

 最近でこそ、あまり言われなくなったが、年金に未加入の方が大勢いるという問題がある。なぜ未加入なのかと言えば「どうせ破綻してもらえなくなるから」と考えるからである。現行の年金制度でも破綻はしない、ただし2%以上の成長率を維持できればである。
 2%の経済成長などできる訳がない、だからいずれ破綻する。
 いや、政府が国民にお金をばら撒けば、経済成長できるのだから破綻は回避できる。と、私なら考えるが肝心の政府がそれをやってくれないので、このままなら破綻してしまうだろう。
 そこで年金を消費税で賄うという発想が出て来るのだが、これは悪手である。
 年金が少ないです ⇒ では消費税を上げましょう
 消費税が高過ぎます ⇒ では年金を下げましょう

 政府は、何の苦労もしないで両者のバランスを取るだけなのだ。こんな制度で安心できるのだろうか?
 つまりは、どんな制度を敷くにせよ、経済成長だけは必要不可欠なのだ。
 経済成長が維持できるのなら、現行の年金制度でも破綻しないのだ。
 しかし、そもそも年金の在り方には、根本的な問題をはらんでいる。それは現役世代がリタイア世代を支えるという事だ。誰しもがリタイア世代まで長生きできると保証されている訳ではないのだ。ここに不公平感が芽生えてしまう根があるのだ。
 また同じような問題が「生活保護」にもある。働けない方、収入がない方を救済するのは制度として絶対に必要だ。しかし、働きもせずに生活保護をもらってベンツを乗り回している方がいると、まずはそのベンツを売ったらどうだ?と言いたくなるだろう。これは極端な例にせよ、どこからが保護を必要とされる方になるのかは議論が多くあるだろう。
 これらの問題・議論を決着させるには、すべての国民に同額の給付をするという制度しかない、つまりはBI(ベーシック・インカム)である。
 現役世代と、リタイア世代が。
 働けない方・収入のない方と、勤労者とが。
 毎月、同額の給付を受けるのだ。それこそが不公平感を根絶させる唯一の制度である。
 よく月に10万円といった主張がされるが、ここでは1年に100万円という金額を主張したい。日本人に生まれて来ると、1年に100万円、100歳まで生きたとすれば1億円を受け取る事ができるのである。
 日本人に生まれて来ると、もれなく1億円の宝くじが当たるようなものである。
 毎月の給付額は、たとえば導入された最初の2ヶ月は10万円づつ給付。
 残りの10ヶ月は8万円づつの給付である。
 翌年からは、9万円の月が4ヶ月、8万円の月が8カ月といった具合にしたらいいだろう。

国民1人あたり2000万円を配る

 デフレが25年続いているが、これを当初は「失われた10年」と言っていた。これが20年になり、まもなく30年になろうとしている。これを一気に取り戻す策がある、それが国民1人に2000万円を配るという事である。
 つまりは「失われた20年」が、政府の失政に起因するものと認めて、その補償として、1年を100万円として20年分を2000万円として給付するのだ。
 この2000万円という金額には、もう一つ根拠がある。
 それは政府が、老後に2000万円必要だと言ったことである。
 2019年6月に金融庁から「老後資金の必要額は2000万円」とする趣旨の報告書が提出された。その額が妥当であるかどうかの議論はおくとして、逆に言えば2000万円あれば老後は安泰だと考えられるだろう。
・失われた20年を補償するための資金
・安心した老後を送るために必要な資金

この両方の意味を込めて、これを2000万円として政府が国民に給付するのだ。

 全国民に一気に2000万円づつ給付などしたら、それこそハイパーインフレになってしまう!
 いえ、絶対になりません。なぜなら政府が老後に2000万円必要だと言っているのだから。よっぽど裕福な方でない限り、そうそう使えない。皆さん、大事に貯金しておくだろう。国民が一気にお金を使わない限り、ハイパーインフレなど絶対に起きないのだ。ましてや日本は25年デフレが続いている国なのだから。
 それでも心配だろうか?では国民に一気にお金を使われないために、少し時間をかけて給付する事にすればいい。
 2000万円を12年間かけて、給付しよう。
 なぜ12年なのかと言えば、日本は3年ごとに参院選の選挙がある。つまり3年ごとに4回、給付を続けるか?という国民の信託を問う選挙を行うという事だ。何なら同じタイミングで衆議院も解散させて、衆参同時選挙としても良い。
 まずこの12年間の間に、国民1人あたり1年間に100万円づつ給付する。つまり12年で1200万円。
 残り800万円は、12年間のうちの10年を使って、1年に80万円づつ給付する。6月と12月というように1年に2回40万円づつ給付するのが良いだろう。ちょうど夏と冬に政府からボーナスが出るようなものだ。

 まず初めの2年間は、1年に100万円づつのベーシック・インカムのみ。(これで200万円)
 残りの10年で、1年に100万円のベーシック・インカムを続けつつ、さらに1年に80万円の給付を行うのだ。(これでプラス1800万円)
 これで12年間で2000万円の給付になる。
 財源は、国債で賄っても問題ないが、これ以上国の借金を増やしたくないのなら、法改正をして政府紙幣で賄えばいいだろう。

消費税を25%に

 それでもハイパーインフレになってしまう可能性を、ぬぐえない方もいるだろう。だったら消費税も税率を上げればいい。ご存じのように消費税は、消費を冷え込ませるのに、とてもとても効果がある。
 2000万円を12年かけて給付する。その間3年ごとの参院選で給付を継続するかの民意を問う。12年間で4回の参院選があり、3年ごとに区切れば…。
①最初の3年間は、消費税10%(つまり現状のまま)
②次の3年間は、15%
③3期目の3年間は、20%
④最後の3年間は、25%

 このように12年間で10~25%まで、段階的に消費税を上げていくのだ。
 25%まで消費税を上げると言っても、国民1人に2000万円を給付するのだから、25%の際に2000万円消費したとしても、400万円が税金として回収されるだけで、1600万円を無税で給付されるに等しいのだから、国民は誰も反対しない。
 早めに使用した方が、消費税で取られる分を減らせるが、早い段階では給付される額がそこまでではないので消費の過熱は抑制される。第一将来的に消費税が上がる事が分かっているのだから、よほど裕福な方ではない限り消費は控えるだろう。ハイパーインフレなど絶対に起こり得ない。
 ハイパーインフレは起こり得ないが、大量のお金を市場に供給するのは間違いないので、景気はほどほどに上向き、インフレ率も上向いて必要な経済成長に近づくであろう。12年が終了してからも、1年に1人100万円のBIは持続したらいい、その上で景気が冷え込む事が起きたのなら、今度は消費税の税率を下げる事を検討すればいいのだ。

 国民1人あたりに2000万円、消費税を25%にというのは極端な政策に思えるかもしれないが、これは本来政府とは、必要なところへお金を支出でき、また逆に市場にお金が多過ぎれば、税収の形で回収できるという事を言いたいのだ。この積極的な支出と回収を行使して政府は、国民の経済活動が最大限活性化するようにするべきなのだ。
 もちろん現実に施行しようとすれば、現行制度から、どのように移行させていくのかの問題もあり、制度設計は煩瑣を極めるだろう。
 しかし、それは困難であっても不可能ではない。
 すべては政治の決断と、強いリーダーシップがあれば実現可能なのだ。

 その政策のエビデンスは?根拠となるデータは?と言われてもない。
 それはそうだ、世界史においても前例のない政策なのだから。
 しかし、もし前例のない政策ができないと言うのなら、人間はここまで進歩できなかっただろう。前例のない事業を実現する事の繰り返しがあるからこそ、今の文明があるのだ。

 非常に極端な例だったかもしれないが、ようはそこまでいかなくとも、とにかく反緊縮・積極財政の方へと国の財政政策を切り替えていただきたいという事だ。

河野太郎よ「反緊縮」へと宗旨替えしてくれ

 河野氏は、菅内閣で行革担当相に就任した際、閣僚が初閣議後に順番に総理大臣官邸で記者会見を行うことについて、
「各省に大臣が散って記者会見をやれば、今頃終わっている。延々とここでやるのは、前例主義、既得権、権威主義の最たるもの」と批判した。
 国民は全員痺れた。
 以後の岸田内閣では、ついに行われなかった。
 発言し、その発言の通りに政治の現場が変えられるのは、現在の日本においては河野太郎氏こそが第一人者である。

 しかし、その河野氏を持ってしても財政政策に関しては、誠に残念ながら前例主義なのだ。科学的な根拠のない、権威主義であり、財務省の既得権の擁護者なのだ。われらの河野太郎が、財務省から御しやすいなどと思われているのは、私からしたら噴飯ものである。

 かっての日本は先の大戦に敗北し、国土は焼け野原となり、国家は瓦解した。しかし、生き残ったわれわれの先人たちが「戦争では負けたが、外交で経済で科学技術で文化では、世界に勝とう!」と奮闘してくれたおかげで、奇跡的な復興を遂げた。しかし、その繁栄は1980年代までで1990年代からは経済政策・財政政策の失敗から長期デフレとなり「失われた20年」によって経済大国であったはずの豊かさの全てを失った。

 2021年12月には「子ども食堂」が全国で6000箇所を超えた。この活動自体は大変意義のある活動ではあるが、これは日本国内に多くの貧困家庭さらに言ってしまえば「難民」を抱えている事の現れである。

 西武園ゆうえんちに「ゴジラライド」というアトラクションがある。ゴジラに襲われているかの体験をリアルに味わえるアトラクションである。これを体験した海外の方が「いいものは、みんな日本にある」との感想をSNSにあげていた。この方はまだ、日本は素晴らしい科学技術を持つ国だとの印象を持っているのだろう。しかし、これはソフトの部分は日本人のクリエーターが作っているがハード自体は海外のものである。

 東京オリンピックの開会式で、ドローンが市松模様の大会公式エンブレムから地球の形に変わるという精密な制御を披露して話題になった。
 やはり「日本の技術は凄いと!」との感想を持った海外の方がいたが、これも海外の技術で、日本のものではない。
 やがて、世界の人たちに持たれている「日本の科学技術は凄い!」という印象も過去のものとなり、その印象すらなくなるだろう。

 今現在、電化製品なりに必要なプログラムの多くを中国に発注している。しかし、日本は注文が多いい割に金払いが悪いので、断られる事も少なくないと言う。
 かっては、これが逆であったはずだ。
 リニアモーターカーも、いつの間にか中国に抜かされていた。

 今に日本人の多くが、日本国内に職がなく、豊かな中国へと出稼ぎに行かなくてはならなくなるだろう。これもかっては、逆だったはずだ。

 G7(フランス・アメリカ・イギリス・ドイツ・日本・イタリア・カナダ)の構成メンバーも、このまま日本の凋落が続くのなら、やがて韓国にとって代わられるかもしれない。よりによって韓国にだ!

 今の日本の全ての問題は、市場にお金が不足しているという事につきる。市場に潤沢にお金があるのなら、物が売れ企業も潤い、皆の給料も上がって、企業も多くの設備投資や新しい技術の開発に資金を投じられるであろう。雇用が改善され、失業者が減り、皆が豊かになるだろう。
 国民が豊かになれば、誰しもが自分の人生に希望を見出せるようになる。自殺率も減り、結婚する方も増えて出生率も上がるだろう。

 国民が豊かになり、景気が良くなって経済成長も維持できるようになれば、自然と税収も上がり、それこそ財政再建への道筋もつくのだ。というより経済成長無くして財政再建などあり得ないのだ。
 そもそも国家の財政破綻があり得ないのだから、財政再建など必要ないのだが、そうは言っても国民の誰もがそれを理解できる日など来そうにないので、財政再建をしたらいいだろう。
 その場合でも、経済成長で税収が上がり、自然と財政再建されるという形でもいいが、税収に頼らずに国債を介さない政府紙幣を発行して国債の償却にあててもいいのだ。
 それが、できないという根拠はあるのか?
 それこそが、非科学の狂信である。

 大量のお金を市場に供給するとハイパーインフレの恐れがあると言うのなら、少しずつ行えばいいのだ。インフレ率が2~5%になった時点で止めれば何の問題も無い、ましてや日本は25年もデフレが続いた国なのだから、止めなくてはいけない時点は、相当のお金を市場に供給した後である。つまりは、相当のお金を市場に供給できるのだ。
 だったら今、貧困や低所得に悩む国民に直接に給付してあげたらいいのだ。

 私の夢は、河野太郎氏が
「私が総理に成れば、日本の1200兆円の借金は一瞬でなくせる」と言ってくれることである。
 世界のニュースで取り上げられ、その言葉は世界史に記録されるであろう。
 いや何も本当にやらなくともいいのだ。これはアルキメデスの
「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」という言葉と同じである。理論的に可能だという話である。

 高市早苗氏は失礼ながら、先の総裁選の直前までは泡沫候補に過ぎなかった。それが安倍晋三元総理の積極財政(アベノミクス)と愛国保守の姿勢を継承し、それを前面に出す事で一躍、有力候補になり得た。
 しかし、私には仮に高市氏が総理に成ったとしても、安倍元総理ができなかった事ができるとは申し訳ないが思えない。
 自民党内で他に積極財政(反緊縮)の方たちは、西田昌司氏や議員連盟「 日本の未来を考える勉強会」に所属される議員の先生方がいるが、失礼ながら総理・総裁候補となり得そうな方が見当たらない。むしろこれから総理・総裁候補になり得そうな方は、石破茂氏・茂木敏充氏・林芳正氏などの方たちは、みな財政再建・緊縮・増税派の方達ばかりである。
 野党に目を向けると、個々には反緊縮を主張される議員もいるが、党全体となると、あとは国民民主党と、れいわ新選組ぐらいの少数野党しかない。

 もう河野太郎先生しかいないのだ。これまで宗旨替えをする度に、総理に近づいてきた先生に、ぜひ最後の宗旨替えとして、
反緊縮・積極財政・経済成長派へと、経済・財政政策を転換していただいて、この日本を救っていただきたい。

 経済成長を果たす以外に、温もりある国を実現する術はなく。
 それ以外に、日本を前に進める事もできない。

 以前、Twitterでは「#河野太郎が反緊縮だったらな」のハッシュタグがあった。今は検索しても出てこない。
 おそらくご本人が検索できないように設定されたのだろう。

 どうか、ぜひ今一度お考え直しください。
 それが非力な、われわれ国民の切実な声です。 

 河野太郎よ、反緊縮へと宗旨替えしてくれ!(国民の声より)

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