父と本

父親は精神障がい者で本を読むことTVで時間をつぶすことだけに生きている時間の9割を使って生きてきた。自分も本を読むようになって、私はびっくりした。本の中では子供を思いやる親、相手を尊重する家族、今はうまく言ってなくても最後は自分たちがおかしいことに気づき状況を変えていこうとする家族、私の知らない家族の形がたくさんたくさん出てきたから。もしかして自分の家族より、この本の中の家族が本当なんじゃ、目の前にある現実はおかしいんじゃないだろうか。純粋な幼児だった私は思った。しかも両親を見限るのではなくて、うちの家族もなんとかなるのかもしれないと思った。そのころはどんな親でもそれしか親がいないのだから、もっといえば家に閉じ込められてる私には愛情の対象が親しかいない、大事な純粋な愛情を彼らに向けてた。錆びて腐って穴の開いたバケツに綺麗な水を汲み続けているような無駄なことをしていたと気づくのにそれから40年位以上たってしまった。本の中にはいろんな感情、愛情、優しさ、憎しみ、悲しみ、友情、が溢れててでも必ず巻末に向けて解決の方向に向かっていく。私も本の中にあるように両親に愛情を向けて見たけどそれは私にとって何の役にもたたなかったしリターンも得られなかった。私はあるときから不思議に思った毎日毎日本を読む父親、1週間に何冊?一年間に何百冊?今までに何万冊?人の感情の溢れる本を読んで(父は専門書的なものはみない、読むのは小説だけ)どうして人の気持ちがわからないんだろう。物語の世界から帰ってきたら自分のこどもに優しくしようと家族でたのしく暮らそうとどうして思わないんだろう。今生きているのは物語じゃなくて目の前のわたしたちと自分なのに。おかしい。おかしいとおもったけど、それをうまく伝えることはできなかったし、父親が何を考えているのかもわからない。あれだけの本を読んで、読むと言う行為は暇つぶしの他に父親にとってどういう効果があるんだろう。自分勝手にできるから、それは絶対ある。本はものだから人のように相手を気遣ったり、相手の前にいる自分を意識しないで済む。好きな時開いて好きなとこまで読んで自分のペースで閉じる。読み終わったら(わからないけど)一冊よんでやった、という達成感もどきもある。そういうことなんだろうか。本当にそれだけだったら父の一生ってなんなんだろう。砂でとりあえず形を人間みたいになにもない。オズのまほうつかいに出てくるブリキの人形のほうがまだましだ。彼は人間になりたくて、大変な旅をした。独りよがりじゃなくて仲間と一緒に。

私も旅したい。何か目標をもって、仲間と。そして帰ってくる日常は今のただ虚しい毎日と少し違っているんじゃないだろうか。この歳になってまだそんな夢を見てる。悲しい。

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