第二五.五話 夢か、現か
二月下旬。
エアコンの暖気と、分厚いカーテンに覆われてよくわからないけど、多分、お昼過ぎ。
「すぅ、すぅ……」
「…………」
場所は……とある“いかがわしい”ホテルの一室。
シャワー上がりでバスタオル一枚の自分の姿が、大きな姿見に映ってる。
「ん、んぅ……くぅぅぅぅ……」
「夕……?」
今のあたしは、『ベッドに眠るオトコの寝顔をイタズラっぽく覗き込む女』っていう、ありふれた、けれど自分の中では初めてな人種になってた。
…………
…………
えっと、今の状況を説明するためには、どのくらい時を戻したらいいんだろ?
二四時間前なら、今目の前で寝ているオトコ……夕とあたしは、ファミレスで残念会やってる最中だったし。
一二時間前なら、もうこのホテルに入ってて。
でも、肝心なことヤらずに、青臭さ剥き出しのままで泣いたり叫んだりしてたし。
そして六時間前なら……
数時間前の自分たちに『あんたらの純情、全くの無駄だったよ?』ってツッコみたくなるくらいに、思いっきり不健全で、けれど、思いっきり幸せな……
「すぅぅぅぅ~、ふぅぅぅぅ~」
「……ぷっ」
思わず、吹き出してしまった。
でもそれは、今までみたいに、自分や他人を蔑むような笑いじゃない。
だって、本当に馬鹿っぽかったから。夕の寝息が。夕の寝顔が。
なんかさ、魚みたいにぽかっと口開けて。
寝息だって、いびきっぽくなったり、急に無音になったり、バラバラで。
それに、表情までころころ変えちゃってさ。寝てるくせに。
そういうのが、馬鹿馬鹿しいんじゃなくて、馬鹿っぽいんだよ。
この、ちょっとしたニュアンスの違い、わかるかな?
「あはは、はは、は…………~~~っ」
なんて、さんざん寝顔や寝息をイジって、笑って、からかって……
けれど今度は、そんな自分の馬鹿さ加減が突然、あんまりにも恥ずかしくなって、あたしは両手で顔を覆う。
しちゃったんだ、あたし。
こんな、ガキっぽい奴と。
こんな、純情そうな奴と。
こんな、優しそうな奴と。
こんなにも、大好きになっちゃった、奴と……
って、駄目だ。客観と主観が混じってる。
ほんっとあたし、バカになったな。
中学までは、国語の成績、良かったのにね。
「ん、ふぐ……」
「ね、ねぇ、夕……帰るよ?」
てか、そんな色気づいたガキみたいなモノローグに耽ってる場合じゃない。
昨日一日ずっと一緒にいて、今日だってもう一日の半分は終わってて。
そりゃ、あたしは全然構わないんだけど、夕の家族がさ……
受験に失敗して、(連絡は入れたとはいえ)翌日もずっと帰らない子供のこと、心配しない親がいるわけない。
……ううん、ウチを見てればそんなでもないかもしんないけど。
でも、コイツの育ちの良さというか、人のよさっていうか、そういうとこを見てしまうとさ。
きっと両親も優しくて、しっかりしてて、ちゃんと愛されて育ったんだなぁって。
そういういい家族まで、ウチみたいに壊してしまうのは違うかなって。
……いや、昨日までのあたしだったら、そんなふうに思うことなんてありえなかったんだろうけどね。
「そろそろ、起きなって」
「すぅ……すぅぅぅ……」
ベッドの側に跪き、もっともっと近くで、顔を覗き込む。
近づけば近づくほど、コイツの顔の馬鹿っぽさが露わになるんだけど。
でも、近づけば近づくほど、そんな間抜け面を見て普通に湧いてくるはずの感情とは全然別の種類のモノが、脳の中を駆け巡る。
「この、健康優良児め~」
「ふぁっ」
そんな熱く湿った感情を誤魔化すように、あたしは夕の鼻先をちょこんとつつく。
夕は、ちょっとだけ反応したけれど、すぐにまた安らかな寝息を立て始め、結局あたしの、(とてもそうは見えないけど)必死の努力は水泡に帰す。
まぁ、そもそもその健康優良児に徹夜させて起きられなくした奴がなに言ってるんだって話なんだけどね。
でもまぁ、つつく程度じゃ全然効かないってのだけは学習したよ。
だったら、もっと強い刺激を与えないといけないってことだね。
「あんたね、そんなに思いっきり爆睡してるとさぁ……」
バスタオルを取り、ベッドに上がり、夕の上に、またがる。
真上から、無防備な馬鹿っぽい顔を見下ろす。
顔だけでなく、体全体を、さらに近づける。
夕の寝息だけでなく、夕の体温まで感じられるくらいに。
「何されても、知らないぞ~?」
そして、彼を包んでいる布団に、ゆっくりと手をかけて……
「……帰ろ」
馬鹿は、あたしだ。
家に帰らせようって思ってるのに、なにサカってんだろ。
優しく起こそうとしてるときに、なに激しく燃えてんだろ。
いつまで火照った体と心、引きずってんだろ。
ただ今日が、今まで生きてきて一番幸せな日だったってだけでさ……
…………
…………
「じゃ、ね? 夕」
「ん、すぅ……」
服は着た。
三○分後に、最大音量でアラームをセットした。
そんなふうに、ベッド脇でごそごそやってても、夕は全然目覚める気配がなかった。
……これ、アラーム鳴ったときちゃんと起きるかなぁ?
まぁ、ちょっとは心配だけど、それでもあたしはもう、彼を自分で起こさない。
勝手に帰って、夕がここにいる意味をなくすことだけしか、やれることがない。
だって、今さら気づいたんだ。
……あたしの目の前で夕が目覚めたとき、大人しく『帰ろっか』って言える自信がないことに。
「また、今度……っ」
「ん、んぅ」
だから最後に……
ほんのちょっとだけの、別れのキス。
そう、ほんのちょっとだけ、だ。
あたしの唇は、夕の唇を避けてた。
三センチもずれて、夕の頬に触れてた。
だって、ほら、ね?
唇に触れたら、夕の息を止めたら、コイツ起きちゃうかもしれないじゃん?
……そういえば、さ。
あたしたち、こんなに軽いキスって、初めてだね。
舌を這わせないキスって、初めてだったね。
そんな、一番罪悪感がないキスを、一番こっそりするなんて。
人が寝てる間に、不意打ちでするなんて。
そして、こんなに照れくさいなんて……
なんか、羞恥の基準が普通と違うね。
なんなんだろうね、あたし。
「さて、と」
帰る前に、もう一度だけ、絶景を堪能する。
相変わらずの馬鹿っぽい寝顔は、本当に安らかだ。
あんた、昨日第一志望に落ちたんだよね?
よくもまぁ、そんな……ううん、ごめん。
ただ、本当に眠かっただけだよね?
悪いね、今朝は激しくってさ。
あたしも加減、わかんなかったからさ。
…………
…………
松下絢深。割とどこにでもいた、落ちこぼれの高校生。
でも、だから、それがどうしたっての?