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第八話 窓越しのお向かいさん その2
『ごめん、今部屋いる?』
『いるけど?』
『じゃあさ、ちょっと話があるんだけど
窓開けてくれない?』
『なに? これじゃ駄目なわけ?』
『うん、ちょっとね』
何の変哲もなかった一日の、暮れて久しい午後一〇時。
LINEでメッセ送って、既読がついて。
それから、わたしにとっては永遠に感じられた数秒が経って……
「よう」
「ご、こんばんはっ」
お向かいの部屋の窓が開き、お馴染みの顔が現れる。
……すでに窓を開けて待ち構えていたわたしの目の前に。
「なに? 部屋に忘れ物でもした? 見たところなさそうだけど……」
「ううん、そういうんじゃないんだけど……」
「じゃあ、どした?」
「う、うん、実はね……」
彼がいる彼の部屋は、数時間前までわたしもいて、夕食前まで他愛ない話をして過ごしたお馴染みの場所。
あの場所にいた時は、あんなに普通に話せていたのに、今こうやって窓越しに向かい合うと、なんだか、意味のある言葉が口から出てこない。
「その……」
「うん」
「え、えっと、何て言うか……」
ううん、言葉が出ないのは、窓越しに向かい合っているからじゃない。
彼の部屋で過ごして、自分の部屋に戻ってきてから、友達とのグループチャットにて、とんでもないミッションを授けられたせいだ。
『陽花梨の告白、今週末で決定ね』
『異議な~し!』
『いんじゃない?』
『ちょっと待って
なんでそうなるの!?』
こんなふうに、ハルが唐突に言い出し、ユキが調子よく乗っかって、アヤちゃんが興味なさそうに、でも反対しない、そんないつものパターン。
その後、話はとんとん拍子にまとまって、アヤちゃんが自分の家の株主優待券をいくつかパチってきて、映画も遊園地もファミレスも何でもござれの態勢が整えられた。
「……っ」
「……?」
わかってる、わかってる。
あのコたちが、本気でわたしのためを思っているってことも。
そのことに、わたし自身が言葉に出せないほどの感謝の気持ちを感じてることも。
……ついでに『絶対楽しんでるだろお前ら』とは言ってやりたいのも。
もっとついでに『高校入ってから一度も二人で出かけたことなんかないわたしに、こういうことやらせるのは流石にハードルが高すぎやしませんか?』って言いたくなることも。
でも、ここで立ち止まっていても何も変わらない。
ここはあのコたちが作った流れに乗るしかない。
言うんだ。言うんだ。
『今度の週末、一緒に出かけない?』って……
さあ、いち、に……さんっ!
「こ、この前はごめんねっ! タ~君があんなことしてるの覗いちゃって!」
「うわ! それ蒸し返す!?」
あああああっ!
照れ隠しに一番振っちゃいけない話題振ったぁぁぁ~!
「あ、ごめんごめん! 蒸し返すつもりじゃなくて、ただ話のとっかかりというか時候の挨拶というか……」
「い、いや……謝らなくていいよ。俺が一生残るトラウマを抱えただけで、陽花梨は何も悪くないから」
「本っ当ごめんなさいっ!?」
しかも想像以上に向こうのダメージ大きいし!
「いや、マジで悪かった……陽花梨にも嫌な思いさせたし、できればもうこの話おしまいにしたいんだけど、俺二度と思い出したくないし、陽花梨も忘れてくれたら……」
「わかったこの話はもうおしまいにしようね! ハイ、やめやめ!」
まぁ忘れないけど。ネガティブな意味でもポジティブな意味でも。
「話ってそれだけ? じゃ、俺、風呂入って……」
「あ、待って! まだ始まってすらいないから!」
さすがに想定外の回り道をしたせいで、彼がだいぶ疑心暗鬼に……というかなんとなくこの場から去りたがっているような気配を漂わせる。
けれど、ここで何も言わなければわたしは、明日、学校で友達にガン詰め……
ううん、そんなことが辛いんじゃない。苦しいんじゃない。
“わたしの願い”が、わたしの弱気のせいで叶わないことが、苦しくて、悲しいんだ。
「あのね、タ~君」
「お、おう」
「今度の、週末なんだけど……」
言えっ、言うんだわたし!
『今度の週末、遊び行かない?』
それだけでいいんだ!
そう、口を動かすだけでいいんだ。
「…………」
「…………」
動かないぃぃぃぃ~!
口が、動かない。
舌が、回らない。
喉が、開かない。
羞恥と、緊張と、恐怖で。
首から上が、完全に固まってしまってる……
「あ、悪ぃ、母さんが風呂入れって呼んでる」
「…………」
そうやって、わたしが何も言えずに固まっている間に、彼の無情な別れの言葉が告げられる。
彼が、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ済まなそうな顔で、わたしに謝る。
わたしが言おうとしている言葉も、わたしの目的も、わたしの気持ちも、多分まったく察してないみたいに。
「んじゃ、おやすみな、陽花梨」
「…………」
そしてとうとう、彼の手で窓は閉められ、わたしの視界から彼が消える。
それでもわたしは、一言も発することができずに、わたしの目の前から去っていく彼を、見送ることしか……
…………
…………
……できないなんて、嫌だ。
『話があるって言ってんじゃん!』
LINEでメッセ送って、既読がついて。
それから、一秒も経たないうちに。
「だったら早く言えよ!」
もう一度、お向かいの部屋の窓が開き、ふたたびお馴染みの顔が現れる。
『そう急かすことないじゃない!
こっちだって色々あるんだから!』
またLINEでメッセ送って、向こうから着信音が鳴って、既読がついて。
「いや俺だいぶ待ったよね? 陽花梨ずっと黙ってたよね?」
彼の、ちょっと怒り気味の声に、わたしの指先も怒りに震える。
『あと三秒待ってくれたら
ちゃんと話したのに!』
「じゃあ今から三秒待つわ。さ~ん、に~い、い~ち……」
『そうやって急かされると
話したいものも話せなくなるじゃん!』
そんな彼の理不尽な……そして、彼にとってはわたしの理不尽な言いがかりに、二人はお互い、険悪な表情で睨み合い……
『だったらいつまで待てばいいわけ?』
やがて、今度はわたしのスマホに、LINEの着信音が届く。
『ちょっと待って心の準備が』
『母さんがさっきからうるさいんだってば!』
『それくらい何よ!
大事な用って言ってるのに!』
『だからそれを早く言えよ!』
『うるっさいな~もう!』
『いや喋ってねえから俺たち!』
…………
…………
白坂陽花梨、一六歳……
それから三〇分も経ったあと、ようやくデートの約束を取りつけました。