第七話 仲直りから三〇分……
ようやく、何の変哲もない日々に戻った、ある夕暮れ。
念願の、数日ぶりの仲直りを果たしたわたしは、しばらくおあずけになっていた、『彼の部屋でダラダラ過ごす時間』を心の底から満喫していた。
わたしは彼のベッドに寝転んだまま。
彼は、ベッドにもたれて。
そうして、いつもみたいに、それぞれ勝手な時間を過ごす、そんなやつ。
「ね~タ~君、なんか新しいマンガとかないの?」
「だから言ったじゃん。電子に切り替えたって。紙の本はもう増えないぞ」
こんなふうに、かけがえのない時間を過ごし。
ここ数日の間、ずっと待ち望んでいた、軽口の応酬を繰り広げつつ。
わたしは、どうしても弾む声と、緩む頬を抑えきれずにいる。
「つまんな~い、この部屋の本、みんな読んじゃったよもう」
「知るか。なら自分で買って来ればいいだろ」
「え~、けち~」
……ううん、多分、わたしだけじゃない、と思うんだ。
彼も、じゃないかと、思うんだ。
なんていうか、彼の口調や態度からも、ちょっと弾んでいたり、ほんのり緩んでいたりする部分が見え隠れして、それがますますわたしを安心させてくれる。嬉しくさせてくれる。
だってさ、『なら(自分で買って)来ればいいだろ』って言ってくれたんだよ?
普段だったらさ、『なら来なければいいだろ』って言うよ?
それってわたしに、『お願いだから、帰るなよ……』って言ってるのと同じだよね!
……まぁ、『※個人の感想です』であることは認めるけどさ。
「あれ? もうポテチなくなってる……ちょっとタ~君、夕飯前なのに食べ過ぎだよ~」
「いやちょっと待て。陽花梨の方が全然食ってたじゃん」
「どうしよ、まだ中途半端にお腹すいてる……歌舞伎揚も開けようか迷う~」
「……夕飯前なのによく食うな」
ベッドの側に置かれた小さなテーブルの上のお菓子入れが、いつの間にか空っぽになってた。
これもまぁ、仲直りの高揚感のせいで、カロリー消費率が高まっている影響だろう。
うん、そうに違いない。
つまり今日のこの心の持ちようなら、どれだけ食べてもゼロカロリーということ。
「……という訳で、開けてしまいました~」
「なにが“という訳”なんだよ」
「とか言いつつすぐ食べる~。夕飯前なのに~」
「うるせ」
そんな、子供みたいに歌舞伎揚を頬張る彼を横目で堪能しつつ、わたしはテーブルの上にある、自分用のジャスミンティーのペットを手に取り、キャップを開けて口に運ぶ。
けれどどうやら、そんなふわふわした時間が、わたしの注意力を完全にふにゃふにゃにしてたらしかった。
「ぁ……」
そう、ペットボトルに口をつけようとした瞬間に、気づいた。
それが、ジャスミンティーじゃなくて、ミルクティーだったことに。
“わたしの”ジャスミンティーじゃなくて。
“彼の”ミルクティーだったことに。
「っ……」
ほんの少し、あと数ミリでわたしの口に触れそうになっていたペットボトルを、慌ててキャップを閉め、さり気なくテーブルに戻し、彼の様子をのぞき見る。
けれど、どうやら彼は、わたしのその動作に気づいていないようで、また新しい歌舞伎揚の封を切っている。
……ふぅ、危ない危ない。
もうちょっとで間違えちゃうとこだった。
こんなポカを彼に見られたら、また勝ち誇ったようにからかわれてしまう。
……なんて、やっぱり、こんなふわふわした時間は、わたしの判断力を完全にぐだぐだにしていたらしい。
「…………ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~」
「どした陽花梨?」
「……………………なんでもなぃぃ~」
ペットボトルを握り締めたまま、枕に顔を押しつけて苦鳴を漏らすわたしを、彼が怪訝そうな口調で気づかう。
けれどわたしは、そんな彼の優しさにも何一つ応えられずにうめき続ける。
いや、なんでよ?
なんで止めちゃったのわたし!?
飲んじゃえばよかったじゃん!
それ紛うことなき間接キスじゃん!
からかわれるのが何だ!
そんなのやったもん勝ちじゃん!
なぜ間違えたことに気づいた!
しかも気づいてなぜやめたぁぁぁ~!?
「っ、ぅ、ぅ……ぅぅぅぅぅ」
「そのマンガ、そんな感動的なシーンあったっけ?」
彼は、もはやわたしの不審な挙動について理解するのを諦めたらしく、また歌舞伎揚を手に取って、ばりばりと食べ続ける。
やがてわたしは、後悔に押し潰されて全ての生命活動を停止してしまい……
この部屋には、彼のお菓子を食べる咀嚼音だけが響き渡る。
…………
…………
そんなふうに、しばらく互いに会話がない時間が過ぎ。
「うわ、なんだこりゃ?」
「……?」
けれど、その静寂は、突然の、彼の素っ頓狂な呟きによって破られる。
「やべ、これジャスミンティーじゃん。間違えた!」
その声につられて、わたしは久々に顔を上げる。
すると、目の前の彼が、妙に気まずそうに、口を押さえてる。
その手には、キャップの外れたペットボトルのお茶。
……わたしの、ジャスミンティーが、握られていた。
「ご、ごめんっ、陽花梨の飲んじゃった……」
「ぁ……」
あ~、そっか。
わたしが間違えて、彼のミルクティーを手に取ってしまい、そして戻したとき……
彼のペットと、わたしのペットの位置が、入れ替わっちゃったんだ。
つまりそれ、全然彼のミスじゃないってことじゃん。
『ごめん、それわたしのせいだ』
けれど、そんなふうに喉にまで出かかった言葉が……
「っ……」
突然、心臓の激しい鼓動により吹き出した血流に押しとどめられる。
「本当ごめんな? 代わりの飲み物、下から持ってくるから」
彼が立ち上がり、扉の方に向かおうとする。
わたしは必死に胸を押さえ、全身全霊をかけて平静を装った。
「い、いいよ~。わたしそういうの気にしないし~」
「え、でも……」
いや気にするに決まってるでしょ!
間接キスした間接キスした間接キスした!
しかも、彼《タ~君》の方から!
「え~? だって、子供の頃なんか、わたしいっつもタ~君のジュース勝手に飲んじゃってたじゃん。今さらだよ」
「でもそれ、一〇年くらい前のことだろ?」
そうだよもう一〇年くらい昔の話だよ!
今とは意味あいが全然違うよ!
ほんっとに、何もかも、違うんだよ……
「じゃ、こうしよう! わたしこっちのミルクティーもらうね?」
「え? それ俺の……」
「そ! だからおあいこ! でしょ?」
でも、でも……
こうなったら、もう、この千載一遇の機会を逃すわけにはいかない。
だからわたしは、テーブルの上の、さっきわたしが置いたミルクティーのペットをふたたび手に取り、震える手でキャップを外す。
そして、飲み口に思い切り口をつけて、ごっきゅごっきゅごっきゅと、一気に飲み干す。
『ファーストキスってレモンの味がするって本当!?』
『実際唾の味しかしないよ?』
アヤちゃんは、キスの味のこと、あんなふうに言ったけれど……
まぁ、直接と間接は、天と地ほども違うってのは理解してるけど……
「うわ、あっま!」
「全部飲んでから言うなよ!」
「いつまでこんなの飲んでるの? ダイエットの大敵~」
「こっちは成長期なの! 大量のエネルギーが必要なの!」
白坂陽花梨、一六歳……
初めての……ううん。
少なくとも、ここ一〇年の間では、初めての、間接キスは……
やっぱり、ミルクティーの味しか、しなかったです。
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