『スローターハウス5』を読んで
主人公ビリー・ピルグリムは、トラルファマドール星人と遭遇する。彼らは、時間や生死という概念から解き放たれている。それ以来ビリーは、自分自身の人生を行ったり来たり、まるで痙攣するように、無意識のうちに時間旅行する。ビリーは人の死に触れすぎた。機械人間のように「そういうものだ」と全てを受容していった。
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ドレスデンでは、死ぬことが義務付けられた。ヴォネガットの表現を借りれば、人々は、「死との義務的ダンス」を踊らされた。人の死は予定調和的に扱われた。トラルファマドール星人やビリーに言わせれば、人は常に死んでいて、同時に、常に生きている。そういうものだ。
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さて、ビリー・ピルグリムとは、戦争に蝕まれたヴォネガットが、記憶を彷徨う中で創り出した彼自身のもう一つの人格なのではないか。
ヴォネガットは、諭すようにビリー・ピルグリムを悲観する。「ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある」
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トラルファマドール星人は、この世のものではない。SF小説だから、当たり前だ。ドレスデンでの無差別的な大空襲も、この世に起きた出来事とは思えない。しかし、こちらは紛れもなく人間自らが引き起こした残酷な事実だ。
ビリー・ピルグリムが、トラルファマドール星人との遭遇によって人の死を「そういうものだ」と機械的に受容していったように、ヴォネガットは、ドレスデンでの凄惨な体験によって、非人道的な死生観に蝕まれていったのだろう。
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この半自伝的SF小説は、本当に未来は変えられないものだと訴えているのだろうか。いや、違うだろう。あえて俯瞰的にビリー・ピルグリムを憐れむことで、「未来は変えられるはずだ」と読者の反発を誘っているように思う。それはきっと、ヴォネガットが真に訴えたかったことなのではないだろうか。この世に落胆せず、ヴォネガットが小説を書いた意味は、その訴えにあるのではないだろうか。そう信じて止まない。
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神よ 願わくばわたしに
変えることのできない物事を
受け容れる落ち着きと
変えることのできる物事を
変える勇気と
その違いを常に見分ける知恵とを
さずけたまえ
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心に突き刺さる詩だ。
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以上、拙文失礼しました。
読んだことがない方には、読みたくなってもらえたら嬉しいです。
読んだことがある方には、ご意見等いただけると嬉しいです。
ありがとうございました。